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アクロポリスの丘「パルテノン」

エーゲ海の午睡 ---ギリシア紀行---

「2002年6月26日〜7月7日」 日通旅行主催(同行者11人)

今回の旅はバンコク経由のタイ航空ビジネスクラス利用だが格安のツアー。
ギリシアの夏は殆ど雨は降らない。連日35度を越す猛暑だが、朝晩は20度 くらいに下がり、また木陰に入ると涼しい。極東のモンスーン気候と違って湿気 がないので爽やかである。しかし日向を歩くので真っ黒に焼けてしまった。
この文ではツアーの日程を辿ることはしない。ギリシア文明あるいは文化遺産 についての「散歩」のエッセイという体裁になるだろう。

2003年2月更新にあたり、その後に発表した短歌を少し追加するのと、 この頃ではADSLや光ケーブルの技術が進んで、通信速度も速くなって 来たので、写真を挿入することにした。
これで今までの文字ばかりで単調な画面が多少はビジュアルになり、 読みやすくなると思う。

この国には1992年の冬にトルコとエジプトを兼ねた十数日のツアーに出かけ、 その印象を『青衣のアフェア』という歌文集にまとめて上梓した。
その時にはギリシアでは、アテネとペロポネソス半島とサロスコス湾一日クルーズ のみの行程だった。その時に行けなかった中央ギリシアとエーゲ海をクルーズで 訪ねるというのが、今回のツアーの目的である。
出発直前になってクルーズ船がオーバーブッキングという事故が起こり、乗る船が ギリシア船籍からイタリア船籍に変わり、乗船地と行程も少し変わるということに なり心配したが、陽気なイタリアの船になったのが、却ってよかったようである。
詳しくは該当箇所で書く。

エーゲ海は多島海
往きは夜行で、寝て行くので体は楽である。
飛行機は中東の真上を飛んでゆく。レバノン辺りの上を通って、明け方キプロス のラルナカ上空を通過。薄明の中にキプロス島の地形と明かりが見える。
ニコシアの南方を飛んでいる。このキプロス島は殆どの住民はギリシア人だが、 北部に一割くらいトルコ人が住んでいて流血のキプロス紛争のあった所。
西の空にまんまるい月が皓々と浮かび、下には島が次々と見える。
まさに「多島海」と呼ぶにふさわしいエーゲ海。大小2000の島があるという。

10年前に比べて車が多くなった。次回のオリンピック開催に備えて空港整備や 道路がよくなったが、アテネ市内は遺跡の関係もあり昔のまま。だから余計に 交通が混雑する。

ギリシアの遺跡保存の考え方
遺跡から発掘された文化財に対するギリシアの考え方は、遺跡の現場には レプリカを置く。本物は博物館に収納して展観に供する、ということ。
これは古来、発掘にあたった西欧列強に文化財を、次々と略取されて本国 に持ち去られたという歴史的経験によるものと言えよう。また保存の意識が、 国民に不十分なままに、盗掘などの不逞の輩が多いことにもよるだろう。
あるいは大気汚染その他による、特に柔かい大理石の侵食を防ぐことなども 理由であろうか。
ということで、貴重な遺産は、アテネの国立考古学博物館に多くが保存され、 他にはアテネのアクロポリス博物館にアクロポリス発掘に由来するものがある他、 デルフィー、クレタ島のクノッソス発掘のものが現地の考古学博物館にある。
因みにアテネのものなど「国立考古学博物館」と英訳されているが、ギリシア語 表記では ETHNIKO(ローマ字表記に書き換え)となっており、この形容詞の意味 は正しくは「国民の」というように訳されるべき言葉だ、と専門家(桂正人)は言 う。
「国立の」という場合には別の単語「クラティコ」という形容詞があるからだとい う。
なおギリシアに関しては1995年新潮社刊の「世界の歴史と文化」シリーズの 西村太良編『ギリシア』が大変よく出来た本で教えられることが多い。

アクロポリスの丘
ここは曾遊の地だが10年前と余りかわっていない。
私の第一歌集『茶の四季』には、この丘の「カリアティド」像を詠んだ歌がある。



沈思のアテナ

片足を少し曲げゐて六人の少女像たつエレクティオンに

六人の乙女の支ふる露台には裳すそ引きたる腿のまぶしさ

さびしさを青衣にまとひエーゲ海の浜べに惑ふ「沈思のアテナ」

「沈思のアテナ」だが、これらはアクロポリス博物館に収納の本物の像につけられた 名前から想起して作品化したものである。
因みに美術史では「遊脚」といって、立像が片足を軽く曲げるのはギリシア美術の 特徴だと言われている。インド、パキスタンの「ガンダーラ仏」にも、このような特 徴 が見られるが、これはガンダーラ仏がアレキサンダー大王の東征の時にギリシア彫刻 の影響を受けたからだ、ということは良く知られている。

 エ
 レ
 ク
 テ
 ィ
 オ
 ン
  ┐
 カ
 リ
 ア
 テ
 ィ
 ド
 像

アテネ国立考古学博物館
「国立」という意味については先の項で書いた。50数室にわたってギリシア全土から の 発掘品が収納されている。最近のガイドブックは皆よく出来ており、たとえばJTB の 「ワールドガイド」シリーズの「ギリシア・エーゲ海」などにも詳しく書かれてい る。
その中でも4室のミケーネ遺跡から出土した黄金のマスク(俗にアガメムノンのマス クと 称せられる)。6室のケロス島で発掘された「竪琴を弾く男」と「フルートを吹く 男」という 紀元前3000〜2000年に栄えたキクラデス文明期の大理石像は造形的にも面白い。
7〜13室のアルカイック期の青年像「クーロス」の数々。14室の「アルテミオンのポ セイ ドン」青銅像、「馬上の少年像」などには人だかりがしている。
28室の「アンティキセラの青年像」はアンティキセラ沖の難破船から発見された紀元 前 4世紀の逸品。30室になると紀元前3〜1世紀の「ヘレニズム期」と呼ばれる時代で、 「アフロディーテと牧神パンとエロスの像」はユニークな大理石像。
二階にゆくと48室にはサントリーニ島のアクロティリ遺跡から出土した紀元前16世紀 の 壁画「漁師」「ボクシングをする少年たち」などが展示されている。












ディヴァニパレス・アクロポリスホテル
アテネでの最初のホテルは名前の通り、アクロポリスの丘のすぐ下にある。
このホテルの地下には古代の城壁の跡が保存展示されている。
アテネでは、どこを掘っても、このような歴史的遺物が出てくるのだろう。
早めにホテルに入ったので一人でタクシーで、アテネ最高峰のリカベトスの丘に行 く。
女の運転手で往復で8ユーロだった。風が強く、あいにく砂埃で靄ってアクロポリス や ピレウス港は霞んでいたのは残念だった。翌朝には丘の下を散歩する。

テルモビレー古戦場記念碑
一路カランバカ(メテオラ)めざしてバスで行く途中のラミアの手前に記念碑はあ る。
これは紀元前4世紀のペルシア軍との戦いのモニュメント。丁度アテネから2時間余 の地点で一服を兼ねて観光客多い。日本人はいない。
ラミアの辺りから道の傍は一面のオリーブ畑。世界一、二の産出国。
カランバカへは二度ばかり山越えの道となる。盆地から山越えをして、また盆地に入 る。

メテオラ---奇岩と修道院
カランバカに近づくと目の前に奇岩が屹立する。メテオラの修道院が岩の上にある。
今回はメガロメテオロン修道院とアギオス・ステファノ女子修道院を見学する。
メテオロンとは「中空の」の意味である。
アギオス、アギア、あるいはトルコのイスタンブールにあるアヤ・ソフィア寺院の 「アヤ」 などは「聖なる」という形容詞で、同じもの。
今では、どの修道院も5、6人の修道士(女)を擁するに過ぎない。昔から雑務は 在家の信者の労働奉仕で院を維持して来たようだ。このような険しい岩の上で、 俗世から隔絶して信仰を守った中世の人々の精神性を近くに感得する。
ここでの私の歌を下記する。 (『地中海』2002年10月号掲載)

メテオラ

名を知らぬ村の教会の鐘の音が朝の七時を鳴り出づるなり

わが泊る窓の向うにメテオラの奇岩の群のそそり立つ朝

峨々と立つ岩山にして奇景なり信を守りて一千年経ぬ

中空の意なるメテオロン修道院すなはち岩は中空に架く

披かれて置かるる本は古の朱の書き込みの見ゆる楽譜ぞ

美貌なる修道女にてイコン売るま黒き衣にうつしみを包み

携帯用イコンなる聖画ゑがけるは聖母とわらべ金泥の中












デルフィ---神託と世界の臍石
デルフィの神託やオイディプス伝説、巫女ピュティアのことなど、ガイドブックに詳 しい。
ここから出土したものを展示する「デルフィ博物館」には、有名な「世界の臍石」や クラシック期の青銅製の「御者の像」などが展示される。





 
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私の第二歌集『嘉木』の中に、次のような歌が載っている。

星の幾何学---MARE MEDITERRANEUM---

森羅いま息ひそめつつデルポイはみどりの芽吹き滴るばかり

小さき泉遺して神託絶えにつつデルポイの地は世界の臍ぞ

熟れたれば舗道に杏の実は落ちて乳暈のごとく褐色に乾く
                   乳暈=アレオラ

したたる緑、永遠の春、あくなき愛、浄福の地ぞアルカーディアは

悦楽の地と描かれて画布にあるそはアルカーディア場所たり得し
         悦楽=ロクス・アモエヌス   場所=トポス

場所はもペロポネソスに満ち満てる悦楽の言辞に通ふと言へり
              場所=トポス   言辞=トポス

デルフィでのホテルはヴーザスというが、道に面して建ち、建物は崖に添って建つ。
玄関が一階で客室は下に下がって作られている。山の中の町で文字通り、遺跡だけで もつ観光地である。眼下に遥かにコリンティアコス湾が白く光る。

ペロポネソス半島---コリントス、ミケーネ、オリンピア遺跡 ---
アテネからペロポネソス半島への道が片側三車線の立派な道路になっていて車が疾駆 する様におどろく。
コリントス、ミケーネの遺跡は十年前に曾遊の地である。この辺りは変っていない が、道路が 新設されたのとレストランや売店が増え、きれいになったことが目新しい。
第一歌集に載せた歌。

竪琴の調べ遥けき蒼穹はアガメムノン滅ぶ時を見にけむ

運河を過ぎゆく船を朱く染めコリントス地峡に夕日落ちゆく
                    運河=カナール



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ペロポネソス半島の東半分は緑の少ない荒れた土地だが、バスで移動してゆく西側は 海流の 関係からか雨が多いようで緑が極めて多い。農地もビニールハウスなどの野菜栽培が 見える。
オリンピアは想像以上に小さな町で、古代と違って海はずっと遠くに後退している。 ここも文字通り遺跡で食っている町。
オリンピア出土のものを展示する「オリンピア博物館」があり神殿の華麗な「破風」 が見られると いうが、クルーズ船に乗る時間の関係で見学はしない。

エーゲ海クルーズに出発
午前11時に外港のカタコロンからイタリア船籍の「ラプソディー号」に乗船。
乗る時にギリシア警察に、トランクを開けてすみずみまで手を突っ込んで厳しく調べ られる。
私の部屋は窓つきの海に面した部屋。ダブルベッドで、シャワーのみ。枕元の壁は一 面の鏡張。
乗船すると、すでに私の名前、部屋番号を打ち込んだプラスチックカードが用意され ており、 船内では、すべてこれで精算する。
精算に使うクレジットカードも登録しておき、下船の時にそれで支払う。飲み物な ど以外の食事、 船主催のツアーなどは船賃に含まれる。
担当乗務員のチップとして下船の時に30ユーロを封筒に入れて部屋に置く。
12時になって、はじめての昼食をダイニングルームで摂る。すべてメニューも日替わ りで、オーダーで 注文を聞く本式の食事。おいしい。
あと船内を少し偵察して海水パンツに着替え、甲板デッキのプールとジャグジーバス へ。私が一番乗り。
奈良のI氏夫妻、山科の女三人組(おばあさんはプールのチェアでお昼寝)も水着で 泳ぐ。
ジャグジーは真水の温水。プールは海水で冷たい。プールは深く背がたたない。
船には毎日ドレスコードというのがあるが、今日も明日もドレスコードはカジュア ル、インフォーマルだが 折角わざわざ持って来たのでギリシアの国旗にあわせて紺のスーツにポケットに白ハ ンカチをのぞかせて 夕食に臨む。この船はダイニングは二回制で、私たちはFirst Sitting  で、座るテーブルも指定。
因みにSecond Sitting は21時からということだ。ラテン系の人の夕 食は、いつも遅い。
スチュワード、スチュワーデスはブルガリア人が多い。賃金を安く使えるからだろ う。
クルーズ船で知り合ったイタリア人のマテオ、頭髪に白いものの混じる60歳、 190センチの背高男。ど陽気なイタリアーノ・マテオと肩組んで、君の未来に 乾杯!
船室には毎朝「ラプソディ・ニュース」という船内新聞が入る。世界の事件の ヘッドライン が載る。










パトモス島---ヨハネの黙示録(アポカリプス)の洞窟と修道院 ---
翌日は朝7時に、船は接岸できないので沖合いに止め、はしけで下船。パトモス島に わたる。
各国語別に班を作り、それぞれバスに分乗。日本語のガイドはいないので英語の班で 添乗員が翻訳 して我々に伝える。この島はヨハネが追放された島で、ここで啓示を得て「ヨハネ黙 示録」を書いた所 だと言われる。洞窟はイスラエルのキリストの生誕地ベツレヘムの洞窟と同様に「聖 地」であり、教徒の 連中はみな神妙である。11時に帰船。













クシャダシ=エフェソス
昼食のあと15時にトルコのクシャダシ港に接岸。ここは大きい港。
ここはエフェソスの遺跡のある所。ここは曾遊の地。
クシュ・アダシュ=鳥の町、の意味だと言う。現地ガイドはトルコ人のオダン君だが 日本語を見事に操る。
私たちのみマイクロバスでエフェソス遺跡に向かう。トルコ陸続きにゆくのと入口が 逆。入場の自動改札機 が、ずらりと並ぶのは壮観。さすが多くの観光客が来る所。遺跡上部の入口から入 る。
以前きたときとは発掘がすすみ、住宅の区域の遺跡が大きな素屋根で覆われている。 ここは見学不可。
出口は下部の駐車場から。帰途、港わきのカーペット屋に連れ込まれるが誰も買わな い。
各自で帰船して19時30分から夕食。 船は一路ロードス島へ。

ロードス島---ヨハネ騎士団の砦 ---
船はここで下船するので精算する。7時30分ロードス島に上陸。トランクも自分で運 ぶ。
ここはトルコ軍によってエルサレムを追われた「ヨハネ騎士団」が逃れてきて城砦を 築いたところ。
塩野七生の『ロードス島攻防記』に詳しい。
はじめに古代アクロポリス跡であるリンドスを見学。途中の車窓からバカンス客の遊 ぶビーチやホテルなどが 次々と連なる。リンドスまでは一時間ほどかかる。
ロードスタウンへ引き返し「騎士の館」をみる。ここは1930年代にイタリア、特にそ の頃の独裁者ムッソリーニ によって再建された。見事な床モザイクはコス島から運んで来られたという。
あと考古学博物館は入場券をもらって各自自由に見学する。ここでは紀元前1世紀の 「ロードスのアフロ ディーテ」が見事な肢体を見せつける。
ロードス港には古いマンドラキ港があり、二頭の鹿の彫像がそびえる聖ニコラオスの 要塞が威容を放つ。


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旧市街は騎士団の築いた城砦に囲まれ要塞都市の面影を見せる。港を囲む防波堤には 三基の古い 風車が趣きを添える。
ロードス島には広くヨーロッパ各地からバカンス客が来ており、片言の英語で話した 少年はスエーデンから 家族でチャーター機でやって来て1か月過ごすという。また、ここは「ロードス・ウ エディング」としても有名で ロードスシティから15キロのフィレリモスのパナギア教会が有名らしい。この教会は 聖ヨハネ騎士団が建てた ということである。私の50代の友人A氏は新婚旅行に訪れる予定だったが都合が悪く アメリカ西海岸にした という。そんなに早くから日本人にも有名であったらしい。

番外・コス島のこと
今回のクルーズでは行かなかったが、この近くのコス島には「アスクレピオスの遺 跡」というのがあり、ここは 古代医学の中心学派として知られるアスクレピオス医学派の聖域だった。
古代医学の父・ヒポクラテスは、この島で生まれ育った。「ヒポクラテスのプラタナ スの木」というのが今でも 名所としてあるらしいが、この木はせいぜい樹齢500年と言われ、ヒポクラテスは紀 元前460年の生まれで あるから年代が合わないという。
斎藤史さんの「原型」の歌人・寺田由紀夫氏に第二歌集『ヒポクラテスの樹』(1996 年4月不識書院刊) というのがあり、次のような歌が載っている。

ヒポクラテスが弟子を集めて鈴懸の木蔭に説きし医学のはじめ

樹齢三千年のヒポクラテスの樹より育てられ日本に生うる鈴懸百余

計算機医療に欠かせぬものとなり鈴懸の下人影を見ず

そういうと各地の大学病院にはスズカケの木が多いが、そういう謂れがあるとは知ら なかった。
寺田氏からは歌集の扉に

三重の塔の内らのくらがりに紅密密と宝相華咲く

という署名をして頂いたことも懐かしく思い出す。 コス島のことからの個人的連想 である。

同行者のこと
今回の旅の同行者は私をふくめて11人だが 奈良に住むI氏夫妻は「日本ギリシア協会会員」の名刺を頂く。現代ギリシア語 の会話は自由に操る。現代ギリシア語は「民衆語」というものだが、「文章語」と いうのは、古代ギリシア語に似せた「文語」のようなもので、これらのことは本 を 読むと書いてあることだが、いざ直面してみると、まごついてしまう。
そんなときにI氏にはお教え頂いた。メールアドレスもお持ち。
数学者で神戸大学名誉教授M氏夫妻。アメリカの大学で教えておられたことも あり英語に堪能で、現地ガイドや観光客としきりに会話しておられる。
メールアドレスだけでなく自分のホームページもお持ちで、この旅の中でもアクセス 端末のある所では、しょっちゅうノートパソコンを繋いでおられる。私も帰宅してか ら HPを拝見した。海外旅行も、いつもレンタカーで二人だけで行かれるらしい。
宝塚市にある西国三十三所御詠歌の二十四番札所「中山寺」の塔頭・華蔵院の庵主I氏夫妻。 頭をまるめておられるので予想していたが、その通り僧籍の人だった。
この寺は名刹で、阪神大震災で被害を受けたが、その復興に65億円かかったと 聞けば、その規模が判るだろう。昔は辺り一帯はみな寺領地だったという。今でも JR宝塚線には中山寺駅というのがあり、安産の寺として盛大な信仰をうける。
「中山桜台」という住宅地があり私の師事する米満英男氏が住んでいる。
京都の山科から来た女四人組。一人はおばあさんで後の三人は若い。女社長 の母親がおばあさん。三人はテニス、水泳で知り合った友人だという。

クレタ島
夕方のオリンピック航空でクレタ島へ飛ぶ。一時間弱の飛行。
この日の宿泊は考古学博物館裏のアトランティスホテル。まだ新しいホテル。
しかし周辺の環境はよくない。朝あたりを散歩してみるが海までは遠くて浜辺へ行く のはやめる。
クレタ島はエーゲ海というよりギリシアで一番大きい島。東西に細長い島だが中央に 2000メートルを越す山脈が走っている。空港もハニアとシティアと三箇所もある。
私はクノッソス宮殿のイルカの絵に会うのが長年の夢であった。ただ、次の行程のた め アテネに飛ぶ時間が迫っており短時間の滞在に過ぎなかったのが残念である。


クノッソス宮殿---考古学博物館---ミノア文明---
神話や出土品などから存在は知られていたが本格的に発掘に着手し神話を事実と して実証するのに成功したのはイギリスの考古学者アーサー・エヴァンスである。
壁画その他の文化財は現場にはレプリカを置き、本物は考古学博物館に収納され 展示される。
現場の建物などは修復されているが、その際セメントが繋ぎに使われているが復元 の方法として批判を浴びているらしい。以前は迷路(ラビュリントス)も自由に入れ た らしいが、今は一部を除いて中には入れない。
クレタ島に初めて人々が住み着いたのは新石器時代の紀元前6000年という。彼ら は小アジアからやって来たとみられる。彼らは美しい磨製石器の製作をしたが博物館 には時代順に多く展示されている。
この後を青銅器時代の文明である「ミノア」時代が受け継ぐ。この名前もエヴァンス の 命名で、神話に登場するミノス王から名づけたものである。
この文明は紀元前2600年から紀元前1100年まで、1500年以上にもわたって君臨し 紀元前18世紀から紀元前16世紀にかけて大繁栄期を示すことになる。
古代の文人たちはミノス王について、賢明な立法者、公平な審判者(彼は死後に、 ラダマンシスとエアコスと共に冥界で魂を裁いた)で、大海の偉大なる支配者である と 評している。
ホメロスはミノス王を「大神ゼウスの親友」と称した。
ツキディデスはエーゲ海を自分の艦隊で手中に収め、キクラデス諸島を植民地化した と伝えている。
プラトンはアッティカ地方の民に対する重税に言及している。これからはテセウスの 神話 に歴史的根拠があることに気づくだろう。
アリストテレスはミノス王のエーゲ海における制海権の区域をクレタ島の地理的位置 から 示した。
アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸間の交差点として絶好の位置で、これらの地 域の 人種と文化の合流、融合に寄与して、ミノア文明の独自の発展を促すものとなった。
ソソ・ロギアードゥ・プラトノスは、このような長年月の交流の結果、ミノア人には 様々の 人種が混交しているという。
有名な「フェストスの円盤」には象形文字が見られるが、これは未だ解読されていな い。
ヴェントリスによって解読された「線文字B」の文書は、アカイア人がクレタ島に定 住して から公用語として使われるようになり、ギリシア語のいくらかの擬古的な形で広まっ た、と 言われる。
またフレスコ画で覆われた有名な「アギア・トリアダの石棺」の四面に描かれる絵な どを 見ると、エジプトの墓の壁画の絵と似通った部分があると共に、ミノア文明としての 特色 をも見せ付ける。
考古学博物館には上に述べた新石器時代からローマ支配期までの文物を収めるが クレタ島で起こったミノア文明に関する出土品は、ここでしか見られない。
詳しくはガイドブックに譲るが20室にわたる展示のうち主なものは *凍石製の牛頭形リュトン(酒杯)*百合の花のフレスコ画*前述の「フェストスの 円盤」*アギア・トリアダの石棺のフレスコ画*百合の王子の着色レリーフ*青の婦 人 と呼ばれるフレスコ壁画*雄牛跳びのフレスコ壁画*想像上の動物グリフィンの壁画 と王の玉座の椅子*乳房を露出した蛇の女神2点*パリジェンヌと称される巫女の 壁画*東翼の女王の間の五匹のイルカの壁画 などを指摘するにとどめる。
私の実兄・木村重信(現・兵庫県立美術館長)によれば、クノッソス宮殿は、厳密に は 「神殿」だろうという。最近の学説は、このようである。


クノッソス宮殿 いるかの壁画

海豚

海の民クレタ人築きし文明のクノッソス宮殿跡碧空の下

描けるは海豚五頭の壁画なりはるばる逢ひに来し我なるか
                          海豚=いるか

クレタ人ゑがける海豚つぶらなる目をしてゐたり四千年経て

海豚はも人なつつこく寄るものぞミノアの代にも今の時代も

牛頭の酒杯に光る金の角凍石製は三千六百年前  
              酒杯=リュトン  角=つの

ミノア人統べにし多島海こぞりたつ文明のはざまの交差点たり
                         多島海=エーゲ海
                   (『地中海』誌2003年2月号掲載)










クノッソス宮殿

聖なる蛇飼はれてゐたる筒ありぬ地母神崇むるミノア人のもの

乳ふさも露はに見せて地母神は聖なる蛇を双手に握る

石棺の四面に描くフレスコ画ミノアの人の死者の儀式ぞ

いにしへの王の別荘より出でしゆゑ「アギア・トリアダの石棺」と名づく

<フエストスの円盤>に記す線文字Aいまだ解読されぬ象形渦巻く

「ユリの王子」と名づくる壁画は首に巻く百合の飾りをしてゐたりけり


高き鼻の巫女の横顔《パリジェンヌ》は前十五世紀の壁画の破片
                             巫女=みこ

ティラ島の火山爆発しクレタなる新宮殿崩壊すBC1450年

八十隻の船団を率てトロイなる戦に行けるイドメネアスいづれ
                            率て=ゐて
                    (『未来』誌2003年3月号掲載)

私の第二歌集に収載の歌

迷宮を出でんとすればイカロスの翼灼きたる炎暑たぎれり
                迷宮=ラビュリントス

ミコノス島
クレタ島から昼前のエーギアン・クロノス航空機でアテネへ。アテネ空港構内のノボテ ルホテル で昼食。なかなか立派な料理。あと14時発の同じくエーギアン航空でミコノス島 へ。
飛行時間40分。宿泊のレトホテルは浜辺のすぐ前。
一人で町の散歩に出る。
風車一基と鄙びた小さい教会。白く塗った壁の民家。
どの家も真っ白にペンキを塗り、窓枠はエーギアン・ブルーで、日中は窓に鎧戸を下 ろす。
そぞろ歩く私に気づくと、やあ、というように手を挙げる戸口の老人。
黒い衣の聖職者が八百屋の店先でぶどうの一房を買う。
驢馬の背に桶を四つぶらさげて通る男くわえ煙草に髭が濃い。
民家の白い壁にブーゲンビリアの赤い花が照り映える。
歌を少し下記する。























鄙びたる小さき教会と風車一基丘の高みの碧空に立つ

どの家も真白にペンキ塗りあげて窓枠は青エーギアン・ブルー

歩く我に気づきて「やあ」といふごとく片手を挙ぐる戸口の老は

戸口の椅子二つに座る老夫婦その顔の皺が語る年輪

愛よ恋よといふ齢こえて枯淡の境地青い戸口の椅子に座る二人

黒衣なる聖職者が八百屋の店先で買ふ葡萄ひと房

驢馬の背に横座りしてゆく老婦大き乳房の山羊をロープに引きて

ミコノスの浜べはヌーディスト陽を浴びる美女の乳房の白い双丘

男も女も一糸まとはずとりどりの色の恥毛光らせ浜辺を歩く

タベルナでゆふべ出会ひし美青年 今日はゲイのカップルでビーチを

                      (『未来』誌2003年1月号掲載)

島のマスコットのペリカン三羽ほかに行こうともせず魚市場で餌をもらう。
ホテルの前のビーチで入ったエーゲ海の水は塩からい。年齢を考えて無理はしない。
ただ 体を横たえて寄せる波にまかせる。
あとホテルのプールに入ってスロープに身をまかせてビールのお代わりをする。
ミコノス島はヌード、ゲイの島として有名。「エーゲ海に浮かぶ白い宝石」と呼ばれ 芸術家 や詩人に愛された島。今は南部のパラダイスビーチなどにヌードやゲイの浜辺があ る。
その名もパラダイスビーチ遊び足りない人々が真夜にも浜にたむろする。

サントリーニ島(ティラ島)
ミコノス港から双胴の高速船でサントリーニ島へ。約2時間。途中パロス島に寄るが 下船は しない。
サントリーニ島は崖ばかりの島。この島の大きな湾になっている所が噴火で爆発して クレタ島 に押し寄せミノア文明が滅びることになった、と言われる。フィラの町、イアの町な どをめぐる。
酷暑が容赦なく照りつけ、とても暑い。イアの町の絵はがきでおなじみの教会や家々 が鮮やか。
日本人の若い観光客が多い。














ここにはアクロティリ遺跡というのが最近発掘され、この島にある考古学博物館に収 められている が今回は案内されず残念である。
夕方おそくのエーギアン航空機でアテネに飛ぶ。

アテネでの泊りはコロナキ広場近くのディヴァニ・カラベルホテル。最初のホテルと 同系統。
翌日は近郊のスニオン岬を見て昼過ぎ帰りの飛行機に乗る。

(完)


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