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『王道』 ---アンコール・ワット紀行---
(2002年12月15日〜20日) 新日本トラベル催行


病後の妻の日常に向き合う日々の合間に、かねて念願のカンボジアのアンコール ・ワットへ旅した。



この旅は二人から催行のコースだが、なかなか人が集まらず、一人参加なので 催行されるのを私は待っていたのである。
急に二人の人が行かれることになり、私が三人目として申し込み、結果的には 6人で行くことになった。関空から五人、名古屋から一人である。
女の人のペアが二組、単身は私と名古屋のU氏の二人。
タイ航空と日航の共同運航で、往きはJALエアウエイズ、帰りはTGの機材となる。
マイレージは往きの時にカウンターで帰りの分も登録してもらう。
添乗員はなし。現地係員が迎え、案内する。
一日目は深夜にバンコクに着き、バンコクのホテル泊り。
二日目はSNTお得意の夜討、朝駆けで4時に起床。バンコク空港から「バンコク・ エアウエイズ」という便でカンボジアのシェムリアップに飛ぶ。

アンコール・ワットの玄関---シェムリアップ
シェムリアップ空港は小ぢんまりとしたもので、空港内には迎えの人は入れないので 柵の向うに旅行社の名前を書いた紙片を掲げて群がって待っている。
現地ガイドはロタさんという二十歳くらいの青年。中国系だと言い、現地で日本語を 覚えたという。
カンボジアは三月まで乾季だが、冷房のある建物から一歩そとへ出ると、肌にねばり つくような湿気を感じる。
アンコール・ワットに関しては上智大学の石沢良昭教授の本などで予備知識は得て いるが、一見しなければ判らないことが多々あった。
ガイドブックも、よいものが多く出ているし、石沢先生の本などに詳しい。
ここでは、私の見聞したことを中心にして書くことにし、ガイドブックを読めば判る ことは、 詳しくは書かない。簡単な印象記と短歌が主なものになろう。

地雷のこと
先ず頭に浮んだのが地雷ということだった。
アンコール・ワットのあるシェムリアップは一番の観光地とあって地雷の除去は勿論、 道路も良く舗装されて、治安もよく安全であった。
後にも書くが、観光地には地雷で脚を失った人が物乞いをしているが、不具になった 人にとっては生活は楽ではなく、物乞いも一概には責められない。
同行者のうち二人は、もう十数年以前に来ており、その時とは特に道路が良くなった という。この二人はアンコールなどのツアーはキャンセルして奥地の遺跡へ100ドル程 のオプションで出かけて行った。そこでは地雷のドクロのマークがあちこちに立てられ ていたという。あと地雷の残っているのは西部のタイ国境の辺り(一番遅くまでポルポ ト軍との間で戦闘のあったところ)だという。

ノコール・プノンホテル
空港のすぐ近くに今回宿泊する「ノコール・プノンホテル」があり、先ずホテルに荷物を おろす。B級クラスだが清潔なホテル。もちろん冷房つき。

外周部コース
第一日の観光コースは、ロレイ寺院などのロリュオス遺跡。汗だくである。
昼食後はホテルへ帰って部屋でシャワーを浴びて、しばらく休憩する。
そして午後三時すぎから、ニャックポアン、プリアカーンなどの周辺部の遺跡群へ。
このようにしないと体がばててしまう。現地に来てみてガイドブックに書いてあるこ とを 実感として理解できるのである。
アンコール見学には写真つきの許可証が必要で米ドルで40ドル。
毎朝、チェックポイントのような建物のゲートを通って許可証を見せる。
馴れてくると車の窓ごしに見せてチェックを受ける。このことを詠った歌を下記す る。
(同人誌『かむとき』掲載予定)

ゲートありて遺跡見学証ことごとに見せつつ通る真夏日の下

見学証三日通用にて四○米ドルなんでも米ドルが通用する国

休息のホテルの昼に同行のU氏離婚の秘め事洩らす

遺跡は崩れかかったものも多く、よく似たものが多いので、変化には乏しい。
夕方、夕日を拝もうとおびただしいバスがバケン山の下に集結し、土のくずれかかっ た急坂を登るが、あいにく雲がかかって夕日は見られない。象に乗って迂回路を登るの があるが一人50米ドルで高い。
ホテルの食事はカンボジア料理というが、まずい中華料理という感じ。セルフサービ ス。

アンコール・トム
第二日のホテルの朝食は、昨夜のメニューと似たようなもの。
今日は午前中にアンコール・トムを廻り、午後アンコール・ワットの見学。
アンコール・トムでは南大門、バイヨン寺院、象のテラス、ライ王のテラスなど有 名。
三島由紀夫のライ王のテラスを描いた戯曲が知られている。
バイヨン寺院の頃からヒンズー教から仏教へと信仰が変る。







 







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ここでの私の歌を下記する。(『未来』誌2003年6月号掲載予定)

アンコール・トム

アンコール・トム築きしジャヤヴァルマン七世は仏教徒にて慈悲深しといふ

回廊の浮彫に描くはトンレサップ湖に魚をすなどる漁師の姿

闘鶏にチェスに賭事なす人ら食事の民も生活ほほゑまし
                     生活=たつき

クメールとチャンパの戦ひ水上の戦闘のさまつぶさに彫れる

象の隊、騎馬隊、歩兵びっしりとクメール軍の行進のレリーフ

バイヨンの仏塔の四面は観世音菩薩の顔にて慈悲を示すや

されど君、説かるるはクメールの言ひ分ぞ正義はいつも支配者の側に

海の民たりしチャンパは越南の大国にして富みてゐたりき

富める国チャンパの財宝かすめむとクメール軍の侵ししならむ

チャム族は今は貧しき少数民族ヴェトナムの地に祖神を守る

バイヨン寺院はアンコール・トムの中心部を占める所で、中央に四面の大きな観音像 が立っている。露天の仏である。ガイドブックなどの写真でおなじみ。

タ・プロム、アケウ、スラスラン
タ・プロムは遺跡を破壊して来たガジュマルの巨大な樹の威力を見せるために、 わざと修復しないで、そのままにしてある遺跡である。
ここでの私の歌(同人誌『かむとき』掲載予定)

タ・プロム

巨いなる榕樹はびこるタ・プロム堂塔は樹にしめつけらるる
                        榕樹=スポアン

大蛇のごと堂にのしかかり根を下ろす榕樹のさまも中央回廊

石組の透き間くまなく根と幹が入り込む景は霊廟タ・プロム

たけだけしき植物の相も見せむとて榕樹を残すも遺跡政策

スラスランは王一族の沐浴の池である。そこでの歌を下記する。
              (同人誌『かむとき』掲載予定)

スラスラン

王と王妃の沐浴せる池スラスラン七つの蛇神のテラスありたり
                         蛇神=ナーガ

水浴場はポル・ポト統べし時代には稲田にされしとふ広らなる池
                         水浴場=スラスラン


アンコール・ワット
午後おそくにアンコール・ワットに入る。暑さのために一眼レフのカメラの具合が悪 くなり シャッターが下りない。あいにく予備のカメラを車の中に置いたままで困惑する。
第一回廊の東面の辺りに来て、休息中に何となくカメラをみてみたら、しばらく機械 を休ませた のが、よかったのか復旧している。「乳海攪拌」の辺りの浮彫はフラッシュがハレー ションを 起こして画像が白っぽく、いい写真がない。
第二、第三回廊への石段が急で難儀する。ここでの歌を下記する。
                  (『地中海』誌4月号、『未来』誌5月号掲載予定)








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アンコール・ワット

大き池わけて詣づる西参堂アンコール・ワットに我は立ちたり

五つの塔を水面に映し鎮もれる寺院の空に浮かぶ白雲

王都なる寺院とし建つる大伽藍ヴィシュヌの神を祀りゐるなり
              王都=アンコール   寺院=ワット

中央塔と第一回廊の角を結ぶ線が135度の二等辺三角形

西面が正面たるは施主たりし王の霊廟のゆゑと伝ふる

寛永九年森本右近太夫の落書きは仏像四体を奉納と記す

西面は「マハーバーラタ」描きたり即ち古代インドの叙事詩

行軍するスールヤヴァルマン2世その先に天国と地獄の浮彫ありぬ

ヴィシュヌはも神八八人阿修羅九二人もて蛇を綱として海を攪拌させつ

「乳海攪拌」そこより天女アプサラ生れ不老不死の妙薬甘露得しといふ

王子率てラーマ軍が悪魔ラヴァーナ討つ猿が王子を助くる逸話
                             率て=ゐて

ラーマ王子はヴィシュヌ神の化身その顔をスールヤヴァルマン王に似せたり

這ひ登る第三回廊への石階は石の壁とふ譬ふさはし
                      譬=たとへ

中途にて凍れるごとく女人をり登るより下りが怖き急階
                     凍れる=フリーズ

歯を見せて笑ふ女神めづらしと見れば豊けき乳房と太腿
                      女神=デヴァータ

回廊の連子窓に見放くる下界には樹林の先にシェムリアップの町

夕陽あかき野づらの果てを影絵なして少年僧三人托鉢にゆく
                        影絵=シルエット

クメールの大平原に太陽が朱の玉となり落ちてゆきけり

地雷に脚を失ひし人老いも若きも寺院の門に物乞ひをせり
                            門=かど

その日の夜は外のショーレストランでアプサラダンスやカンボジアの民族舞踊を 見ながら食事する。ただし、ここもセルフサービスである。

水中遺跡クバルンピアン、バンテアイ・スレイ
三日目は約2時間かけて、最近みつかったクバルンピアンにゆく。
途中にバンテアイ・スレイがあるが帰りに寄るということで素通りする。ここまでは 舗装が よく出来ているが、その先は土道で凸凹の赤土の悪路。
下に車を止め、ふうふう言いながら山道を約1時間、木をわけ、岩をわけて登る。
谷川の岩にヒンズー教の神やリンガ、ヨニが彫られている。苦心して登る割りには、 ほんの ささやかな遺跡。西欧人も多く、英語、フランス語などが聞こえる。
下におりて草葺きの店屋で持参した弁当(ホテルが用意してくれたもの)を食べる。 食べないものは物売りの少女にあげる。

バンテアイ・スレイ
素通りしたバンテアイ・スレイに寄る。ここは小さな寺院である。ヒンズー教の遺 跡。
ここにある女神像は、アンドレ・マルローが盗んで帰ろうとして捕まったエピソード で有名。
それらの事実を踏まえて『王道』が書かれた。この本を読んだのは私の20代の頃だ が、 この本は読みにくいもので、他の『希望』や『征服者』も同様である。
マルローはマルキストたちと付き合った後、ドゴールに共鳴し二度にわたり内閣に 入って 文化相や情報相などに就任した。20世紀に入った頃からインドシナ半島はフランス の植民地 であったが、現地を探査した経験もあり、東南アジアの芸術理解の第一人者だった。
この女神像を「東洋のモナリザ」と呼んだのも彼である。

ここでの私の歌を下記する。(同人誌『かむとき』掲載予定)

東洋のモナリザ---バンテアイ・スレイ ---

『王道』を読みしも昔はるばると女の砦に来たれる我か
               女の砦=バンテアイ・スレイ

マルローが盗まむとせる女神像ひそやかなる笑みたたへてをりぬ
                         女神=デヴァータ

リージェンド・ヴァルマン2世建てしとふ赤褐の塔千余年経る
                          経る=ふる

「東洋のモナリザ」と評さるる女神とて汗あえて巡る午後の祠堂を

ひと巡りにて足る寺院ロープ張りて女神と我らを隔つる空間

蓮の台ゆ股に女を挟みその胴に爪をたつるヴィシュヌ神はも
                            台=うてな

トンレサップ湖
第四日目は車で小一時間の距離のトンレサップ湖観光である。
今は乾季で湖の岸は後退している。砂洲のようになった船着場からSNTの看板を立 てた小船に 乗る。草葺きの家の周りに、見境いなくゴミを捨てるので風に舞っている。魚の腐っ たような臭い が漂う。湖と岸との間には干満の差によって出来た自然の砂洲があり、本湖と岸を隔 てている。
大きな船が係留されている。恐らくベトナムや周辺から来た船だろう。さまざまな資 材が見える。
鍛冶屋や車の部品を修理するのか、作業船もある。船上生活をする人も多い。 ベトナム系の人も多いとガイドは言う。彼らによると顔を見ただけで、民族の違いは 判るという。
折り返しの辺りに「魚博物館」と称する筏があり、ここに飼われている鯰やワニその 他の生き物を 見てまわる。鯰が餌に飛びつく獰猛な食欲に驚く。
ここでの私の歌を下記する。(『地中海』誌5月号掲載予定)

トンレサップ湖

牛に引かす荷車に木舟のせてゆく先は湖トンレサップか

水牛に水浴びさせる少年の総身に水滴したたりやまず

竹編みて作る「もんどり」田の溝を溯る小魚とらへむがため

砂洲にある小さき学校フランス語の看板かかぐトンレサップ湖畔

湖の筏の生簀に飼ふ鯰たけだけしくも餌に飛びつく
                      鯰=なまず

果てもなく広がる湖その先は大河メコンに連なるといふ

魚醤にて食へば思ほゆ湖の網にかかりし小魚の群

椰子の実に大き穴あけて供さるる果汁ははつか青臭かりき

素はだかに濁れる水に飛び込みてはしやぎゐる児らに未来のあれな


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