目次


ブレーメン「音楽隊の像」

グリムの森からハンザの道へ  2003.6.12─ 6.21
JTB旅物語(東京)主催

ドイツ・メルヘン街道、エリカ街道
今回の旅はフランクフルトを起点に北上し、いわゆる「メルヘン街道」と称されるグリム兄弟の故地を辿り、マールブルクからカッセルを通り、「笛吹き男」の童話の町=ハーメルンを経て、「音楽隊」の銅像で知られるブレーメンに至る道である。
そこから北ドイツの大工業都市ハンブルクから始まる「エリカ街道」と称する道を、ほぼ東進しリューベック、ロストックへ至るものである。
ハンブルクは北海からエルベ川を溯った所にあるが、リューベック、ロストックはバルト海に面している。ロストックは、もう「旧東ドイツ」の区域だったところ。

ルフトハンザ機内で卒倒
今回の添乗員は40歳すぎの横山という男性でJTBの社員。細かいことは言わず楽である。私の二人掛けの隣席には黒人女性が坐っていて、英語で喋る。南アのヨハネスバーグ出身で現在オーストリアのリンツに住む。女の子一人あり。24歳、結婚してスペインのバルセロナに住むという。宝石の原石関係の仕事で、10日間東京に出張の帰りという。名前をオルガという。メモ帖に書いてもらったサインは OLGA EGGEN。娘と旦那の写真を見せられる。娘は仏教徒だという。私の名刺をあげて、ローマ字、漢字、ひらがな、かたかななどを解説する。
昼食後3時間くらい後かに、急に吐きそうになり、トイレに行って吐こうとしたが、塞がっていて、思い直して坐り直したが悪寒がして、立ちあがってトイレに行こうとしたのか、立ち上がった頃からの意識がない。私の席は後ろから二番目で最後部で、よく揺れる。トイレ横で卒倒したらしい。後で聞くと3分間意識がなかったという。そこで吐いたものを片づけられ、機内放送で医師が呼ばれ、気がついた時に私の脈を取っている人がいた。しばらく横になっていたら、グループ名と添乗員の名前を聞かれ、横山氏がのぞきに来てくれる。スチュワーデスに診てくれた医師を教えてもらい、お礼の挨拶にゆく。私の名刺を渡し、彼の名刺ももらう。オルガによると、この姓はアラブ人のものだという。手、指などを切断した人の修復手術のスペシャリストだという。日本で学会があって4日間いたらしい。
因みに、こういう機内放送で「医師の方は名乗ってくれ」という時に知らぬ振りをしていたことが判ると、後で懲罰の対象になるらしい。
この卒倒事件は、私ははじめてで、酒を飲み過ぎたわけでもなく、気をつけなければならないと、反省材料になった。

同行者H氏夫妻のこと
今回の旅の同行者とは、住所、名前などを交換したのはH氏だけである。旅の中では仰言らなかったがH氏は東北大学出身で化学者、大阪府立大学、広島大学教授を定年退官後、国立米子高専の校長を勤められた。桑原武夫、扇畑忠雄の名前も出て、木村重信の名前や業績もご存知。
30歳の頃、アメリカのシカゴのイリノイ工科大学で研究者生活の際のボスがマールブルク出身で、給料を溜めた金でヨーロッパを巡った際に、昔、マールブルクを訪れたことがあり、今回の旅はマールブルクが行程にあったので一も二もなく申し込んだという。

ヴェーザー川=メルヘン街道のキーワード
この旅のバスの運転手はパトリックというが、フランスのストラスブール郊外に住むという。われわれを乗せるために朝早くストラスブールからやってきたものだが、ヨーロッパは陸続きだと実感する。
ブレーメンまで、ずっとヴェーザー川が行程中つきまとう。だから横山氏は、この川がメルヘン街道のキーワードだという。

全行程のバス
全行程のバス
運転手パトリックと添乗員横山氏
運転手パトリックと添乗員横山氏

ハーナウ=グリム兄弟の生れた町
ハーナウはグリム兄弟の生地でメルヘン街道の起点である。かつての帝国自由都市として約850年の歴史を誇る古都だ。兄ヤーコブは1785年に、弟ウィルヘルムは1786年に生れた。マルクト広場にグリム兄弟の銅像がある。広場の気温は26度を示している。
ハーナウから約50kmでシュタイナウへ。ここはフランクフルトとライプツィヒへの通商路として発展して来た。1791年にグリム兄弟は祖父が牧師をしていたハーナウに移住。ここで学校教育を受ける。それらのゆかりの建物を見て歩く。昼食のレストランは、もと税金徴収所と言い、1589年には下級官吏の家だったという記録がある。昼食のメニユーは白水社刊「グリム家の食卓」に載るものという。主皿はラビオリ。

ハーナウのマルクト広場・グリム兄弟像 シュタイナウのグリム兄弟の住んだ家(二階が父が判事をする裁判所)
ハーナウのマルクト広場・グリム兄弟像 シュタイナウのグリム兄弟の住んだ家
(二階が父が判事をする裁判所)

マールブルク=大学都市=方伯城に汗あえて登る
今日は強行軍で、ひきつづきマールブルクへ。フランクフルトを出て、ハーナウ、マールブルクを経て宿泊地のカッセルまで約300キロを移動する。方伯とは、華族の階級の下から二番目の位。全体で五番目の爵位という。城を降りた旧市庁舎広場やエリザベート教会など中世の趣を残した由緒ある風情。H氏にとっては思い出の町である。ここはマールブルク大学のある大学都市と言える。この大学はドイツでも指折りの名門らしい。ガイドブックによると、ルターが神学上の論争を戦わせ、グリム兄弟が大学生活を送りつつ、メルヘン収集のきっかけを得たという。坂の町である。

マールブルクのエリザベート教会内部(王家の棺)
マールブルクのエリザベート教会内部(王家の棺)
マールブルク「方伯城」外観
マールブルク「方伯城」外観

グリム兄弟と民話の話、大辞典の話
グリム兄弟はマールブルク大学の後、カッセルで図書館に勤めた。民話の収集に本格的に取り組んだのは、この頃からであるという。有名なフィーマンおばさんをはじめとした「童話おばさん」が民話を語り聞かせ、兄弟がそれを脚色し「子供と家庭のメルヘン」として発行した。民話には、もっと怖い生々しい話もあったらしい。その後、兄弟はゲッティンゲン大学教授となるが、国王ハノーファー伯を批判した文書にかかわり、有名な「ゲッティンゲン7教授事件」に巻き込まれ1830年大学を免職になる。グリム兄弟が真価を発揮するのは、これ以後で、彼らはベルリンに移って「ドイツ語大辞典」の編纂にかかり、それに終生を捧げた。いわゆる「グリム・ドイツ語辞典」と呼ばれるが、生前にはAからFの途中までしか進まなかった。遺業として1909年からはプロシア科学アカデミーが引き継ぎ、第二次世界大戦で東西ドイツに分断された後も、政治的立場を超越して共同で事業にあたり、120年を経てZに辿りつくという大事業となったが、中世以降のドイツ語を網羅し、語彙と使用例の詳しさでは他に類を見ないものだという。こんなところにも「ドイツ人魂」というべき堅実性を、かいま見る。
ちなみにゲッティンゲンはハイデルベルク、テュービンゲン、マールブルクと並ぶドイツ4大大学と言い、ゲッティンゲン大学はノーベル賞の受賞者が40人を越すという名門。

ハルツ山地「魔女伝説」──
2003年6月の旅では、ハルツ山地へは、立ち寄らなかった。しかし、ここはドイツの魔女伝説が今でも数多く残っているところで、それらの言い伝えや伝説が、グリム兄弟の「グリム童話」の元になっているものである。
ドイツ語で魔女は Hexe ヘクセと言うが、その語源は古代高地ドイツ語の Hagzissa と言われる。Hagは森、Zissaは妖精を意味する。つまり、魔女は「森の妖精」というイメージが昔の人にはあった。そう考えると深い森に囲まれたハルツ地方に、なぜこれだけの魔女伝説が強く残っているのかが見えてくる。
またハルツ山地は周辺の平野から孤立して盛り上がっていて、海からの湿った風を受け止めるため、しばしば霧が立ちこめ、どこか神秘的でもある。中世の人々にとっては山や森は半ば恐怖や畏敬の対象であった。
ハルツ地方に残る魔女伝説で一番有名なものは、ブロッケン、ターレ、ゴスラーなどのハルツ地方の23の場所で今も続けられている「ヴァルプルギスの夜」である。
ゲーテの「ファウスト」にはブロッケン山がその舞台として出てくるし、ターレの「ヘクセンタンツ」(魔女の踊りの意味)広場は、魔女たちが宴会をした場所だと言い伝えられている。その祭は4月30日の夜に魔女と悪魔たちが集まり大宴会を開くというもの。この話の起源は大変古く、紀元前からドイツ、北欧で土地のシャーマンたちが冬の悪魔を追払い、春の神を歓迎するための祈祷を捧げていた話が元になっていると言われる。
中世ヨーロッパでは「魔女狩り」が激しく、19世紀まで続いていたというが、教会による魔女狩りの犠牲者は50万人とも100万人とも言われる。
ハルツ地方では、1593年クヴェトリンブルクでは133人もの人が魔女として火あぶりの刑に処せられた。

今日では、これが魔女ショー化され、4月30日の夜中の宴会に魔女や悪魔の扮装をした人々がつめかけるという。

このDoblogの会員で、/855のドメインを持つ「えりさん」の「独逸からの手紙」2/10付けの記事を転載させてもらうと、「魔女狩りのからくり」として、以下のようなことが書かれている。
−−−魔女裁判は聖職者のためにあったと断言していい。一番多かったのは「財産目当て」。資産家を魔女に仕立て上げ、領主、大司祭、審問官(裁判官)の三人で山分けした。司祭が娘に手を出して妊娠させると、後始末に娘を「魔女裁判」にかけて処刑したという例もある。
魔女裁判は、ドイツが一番激しかった。(最盛期は1600年前後)これは聖職者ルター(1483−1546)とカルヴァン(1509−1564)らが魔女裁判を強く支持したことによる。
カトリックよりもプロテスタントで魔女裁判は激しく行われた。
魔女裁判は「大衆主導」ではなく、公権力により組織的に行われた。進歩的な人間、真面目な人間、知性のある人間が、積極的に関与した。
魔女裁判の熱でヒステリックになったのは、その犠牲になっていた民衆──カラクリを見破る知性を持たず文盲だった民衆──だった。
魔女裁判とは「ルネッサンス」と「宗教改革」とで混沌とした中で、教会の権威を保つために、彼らの思想、宗教観念、利益のために他者をねじ伏せ、排除しようとした人々が起した。
「魔女裁判」は、また支配階級内部の勢力争いや矛盾から民衆の批判をそらす働きをし、彼らの詭弁に気づかない民衆は魔女熱に犯され、互いを監視、告発したのであった。本来ならば教会、支配階級に向けられるべき抗議のエネルギーが、民衆同士の中で浪費されてしまったのが、「魔女狩り」の本質である。−−−
長い引用になったが、よく書かれていると思う。そしてルターについては、現代ドイツの学校教科書でも二番目に有名な偉人ではあるが、「魔女裁判」については、ルターは最大の悪人である、とまで書いている。これも「魔女裁判」の犠牲者の数の多さを考えると、当然であると言えるだろう。また、この記事を読むと現代ドイツでは、ルターのような偉人でも、客観的な冷静な目で見られていることが判り、ドイツ人に一層の尊敬を抱いた。

マールブルク旧市庁舎広場の木組みの家並
マールブルク旧市庁舎広場の木組みの家並

カッセル=ウィルヘルムスヘーエ宮殿と丘の上のヘラクレス像
ホテルの近くにドイツ国鉄の駅があり、朝の散歩に駅構内の写真を撮ったりする。その名も「カッセル・ウィルヘルムスヘーエ駅」という。
丘の上のヘラクレス像の辺りからの眺めは一品。丘の下の王宮博物館はレンブラント、ル−ベンスのいい絵を所蔵する。

ヴェーザールネッサンスの木組みの家
ヴェーザールネッサンスの木組みの家
木組みの家
木組みの家

ハン・ミュンデンの木組みの家=ヴェーザー・ルネッサンス
カッセルから約22キロにハン・ミュンデンがある。ここはガイドブックにも記載のない所だが、木組みの古い家並が美しい町。折りしもマルクト広場ではお祭りのショーがあるらしく、大混雑。午後3時にカリオンが鳴り、仕掛け人形がせり出してくる。
ここから約45キロのザバブルク城はグリム童話のイバラ姫の説話に因む城。
今夜はハーメルン郊外30キロにあるヒルデスハイムのメリディアンホテルに泊る。マルクト広場に面して建ち、古い建物を生かして広場に面した部分はショップなどでホテルは内部に広がる趣のあるもの。ガウンが備え付けてある。ここを選んだ現地手配会社に感謝する。広場は土曜日ということもあってショーなどもあり、夜おそくまで賑やか。
ここに来る途中の国道にはキャンピングカーが何台も走り、川の傍にはキャンプするのが見える。ドイツ人も遊び好き。
ドイツにはロマンチック街道など日本人がたくさん行く街道があるが、この辺りには滅多に来ないらしく、現地の人たちも「日本人が来るのは珍しい」と言っている。この辺りはガイドブックにも、ろくに載っていないところが多いが、中世以来の古い町並みが、よく保存されており、(あるいは戦災を受けたかも知れないが復元されたものか)ロマンチック街道も、それなりに面白い観光地が多いが、この辺りの古いドイツの家並の豊かさを見るのは、われわれの知らないドイツ文化の奥深さを、かいま見たようで感銘を受ける。

ヒルデスハイムの世界文化遺産など
ドイツの世界文化遺産を調べていたら、ヒルデスハイムの聖ミヒャエル教会、聖マリア大聖堂の二つが1985年に世界文化遺産に指定されているという。
ヒルデスハイムには11世紀に司教座が置かれ、この町は教会とともに発展して来た古都だという。
この二つの教会は初期ロマネスク様式を代表する名建築で、聖ミヒャエル教会の12世紀の木製天井画、聖マリア大聖堂の11世紀の青銅の扉や彫刻円柱などの美術品が貴重なものだという。
このヒルデスハイムには宿泊はしたが、翌日のハーメルン観光へと直行したので、この二つの教会は見学しなかった。従って、写真などは、ない。
ドイツにはユネスコに登録されている世界文化遺産は24あるというが、今回の旅の区域では、リューベックの町全体がハンザ同盟の関連で指定されている。
因みに、目ぼしい他のものを挙げると、ケルン大聖堂。ベルリンのシュプレー川の中州の島、俗に博物館島──ムゼウムス・インゼル─という絵画館、大聖堂、ペルガモン博物館などのある島。ポツダムのサン・スーシー宮殿と公園。などがある。

ドイツのはじまり──
ゲルマンが歴史に登場してくるのは、375年の、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」である。そのころゲルマン民族は先住のケルト民族を駆逐してバルト海沿岸から南下し、ライン川、ドナウ川まで進出してローマ帝国と接するようになる。そして東方からのフン族の西進に押されて、ゲルマン諸民族はローマ帝国内に移動し、一番西ではイベリア半島にまで達したが、各地に根付いて建国をする。なかでもライン川下流地域に勢力を張っていたフランク族は優勢を極め、フランク王国を築く。8世紀末カール大帝の時代には、今の西ヨーロッパの地域を支配した。しかし、大帝の死後843年に三つに分裂し、今のドイツ、フランス、イタリアの国の地域に分かれて行く。そのうちの東フランク王国がドイツの基礎となり、962年ザクセン公国のオットー1世がローマ教皇から帝冠を授けられて神聖ローマ帝国として発足する。
その後は十字軍、ハンザ同盟、新教、旧教の紛争、30年戦争などを経て国力は衰える。
もともと神聖ローマ帝国の皇帝には実権がなく、多くの小国が分立し、18世紀を見てみると、選挙侯や聖俗の諸侯が94、伯が103、高位聖職者が40、帝国都市が51と288もの領邦・都市が存在した。
もっとも、このためにドイツの地方色ゆたかな風土が培われ、現在に至っているとも言える。現代のドイツの国の名前も「ドイツ連邦共和国」と言い、州の議会の力の強い連邦国家であることを知っておきたい。

ドイツを形作った自然環境──
ドイツは地形的に大きく三つ──北部低地、中部丘陵地域、南アルプスに区別できる。これは標高の高低で区別したものだが、もう一つ、河川による区別である。
北部にはエルベ川がほぼ南北に、西部にはライン川が南北に、南部にはドナウ川が東西に流れている。大ざっぱに言ってラインの東、ドナウの北は大原始林に覆われ、ローマのカエサルも足を踏み入れるのに苦労したと言われ、ドイツ精神は、この森によって培われたと言われる。

「ハーメルンの笛吹男」の野外劇の風景
「ハーメルンの笛吹男」の野外劇の風景

ハーメルンの笛吹き男(ネズミ捕り男)
ここではグリム童話の「笛吹き男」の物語を中心に観光コースが組まれている。この物語は笛を吹いて町を困らせていたネズミを退治した男に約束の報酬を支払われなかったことの復讐として、男が笛を吹いて子供たちを集めて攫ってゆく、という話である。「ネズミ捕り男の家」というのがあり、後刻ここで昼食も摂る。野外劇「ハーメルンの笛吹き男」というのが何とかいう建物のステージであり、多くの人が観ている。隣のドイツ人と話していたら、帰りにガイドブックのようなものを呉れた。
昼食後193キロを一路走ってブレーメン中央駅前のメルキュール・コロンバスホテルに17時すぎに入る。

伝説に包まれたハーメルン──
現地で買って来たCW Niemeyer社の写真集に簡単なハーメルンの概要が書いてある。
ハーメルンは中世の町である。殆どの新しい町は古代の遺跡の上に形成されているが、古代遺跡を残しているだけである。
ハーメルンは中世の町であり、現在でも人がそこに住み、元のものを維持している。
ハーメルン市は美しい自然の風光の中にある。ブナの木に覆われた低い山地の広がるヴェーザー川流域にある。
ハーメルンの歴史は、ハーメルンという村の近くにフルダの帝国修道院が、ベネディクト派僧院を置いた800年頃から明らかになってくる。ハーメルンは11世紀には「市」(いち)の立つところとなり、1200年頃の古文書に「市」(し)と市民に関する記述が認められる。
1284年の「ハーメルンの子供たちの失踪」事件により、ハーメルンの名は広く知られるようになる。
この事件から、ネズミ捕り笛吹き男の伝説が生れたのである。町に大発生したネズミの被害を、見事に退治した笛吹き男に、市民が約束の謝礼をしなかったため、男は笛の音で子供たちを誘いだし、そのまま連れ去ったというのが伝説の概要。これは実際に起きた史実で失踪には東部ヨーロッパへの集団移住説、少年十字軍など色々の説があるが、長い年月が経って、この悲しい出来事を知らせたのは盲目と唖の二人の少年が帰って来て判った、というのである。この写真集には1622年にフランクフルトで刷られた絵新聞が載っている。
1426年から1572年までハーメルンはハンザ同盟に属していた。
三十年戦争ではハーメルンは新教のデンマーク軍に、のちに旧教の皇帝軍のティリー将軍に占領された。
1664年から1684年までヴェルフェン家の要塞となったが、1808年にナポレオンが非要塞化した。1867年にプロイセン領に編入される。
第二次大戦で甚大な被害を受けた。1945年4月5日砲撃により市庁舎、マルクト広場、川中島水車などが壊滅。
4月7日アメリカ軍が進駐。
1969年〜70年に旧市街修復開始。以前の絵や写真に基づき忠実に再現して今日の景観となっている。
私のHPで何とかいう建物と書いてあるのは、「結婚式の家」ホッホツァイツハウスのテラスのことで、ここで野外劇が行われた。この家は現在は市の公文書館となっている。「ネズミ捕り男の家」なども再建されたようである。これらの建物はいずれもヴェーザー・ルネッサンス様式のものである。
我々が現在見ている風景は、さながら中世そのものだが、完全に破壊されたものを忠実に再現されたものと知って、ドイツ人の伝統文化を守ろうとする執念に改めて敬意を表するのである。
「ねずみ捕り男の家」で食べた昼食は、ここの名物の「ネズミの尾っぽ」という名の豚肉料理だったことを、今思い出した。
ハーメルンの旧市街は「市壁跡」とヴェーザー川に囲まれた半径300メートルほどの大きさである。駅前広場からバーンホフ通を通り、旧市街への地下横断道を経て入ってゆく。「市壁跡」というのは、かつて要塞だった頃の旧市街を囲んでいた壁の跡を一部保存してあるもの。
サーモンピンクの美しい壁の家はライストハウスと言い、二階から上は博物館でネズミ男に関する資料を見せる。

「ネズミ捕り男の家」昼食を摂ったレストランとなる
「ネズミ捕り男の家」昼食を摂ったレストランとなる

ブレーメン市について──
ブレーメン市 Bremen は人口60万人余り。ブレーメルハーフェンとともにブレーメン州を構成する。ハンブルクに次ぐ港湾都市だが、港は海岸から65キロの内陸にあり、ブレーメルハーフェンが外港の役割を果している。ブレーメン港は近代的なコンテナなどの積み替え設備を持ち、外洋船が入れる水深を持つ内港がある。市街はヴェーザー川の両岸に広がり、各国の総領事館などがある。第二次世界大戦で173回に及ぶ空襲を受け、市街の60パーセントが破壊されたが、見事に再建された。
ブレーメンが文献に初めて名を現したのは、788年カール大帝によって、この地に司教座が設けられた時で、まもなくハンブルクの教区と合体して845年大司教座となった。ブレーメン大司教は、そのころバルト海地方のキリスト教教化の推進者で、ブレーメンはその活動基地として活気を帯びた。このようにブレーメンは初め宗教都市であったが、対イギリス、スカンジナビアのバルト海貿易の基地として、商業都市としての存在が大きくなった。対外商業で富を得た商人団は、965年都市法を得て、自治の第一歩を踏み出し、11世紀半ばの大司教アダルベルトの時代に最初の繁栄期を現出した。ヴェーザー川の両岸に発展した町は、市民自治をめざし、1246年に成文的に確立した市会の制度でほぼ完成し、13世紀には大司教の支配から脱した。
ブレーメンはハンザ同盟初期からの有力構成員だったが、富裕商人の寡頭政治に対する下層市民の反乱などもあって、宗教的にも新旧両派の争いの後、17世紀に新教のカンヴァン派信仰にほぼ落着した。
ブレーメンは1646年帝国都市となり、1815年のヴィーン条約で自由都市たることを国際的に確認され、ドイツ連邦に加わった。1857年世界的な大汽船会社北ドイツ・ロイドの設立があり商港として今日に至る大貿易都市として発展して来た。
(平凡社・世界大百科事典参照)

ブレーメンの音楽隊
ブレーメンは1200年の歴史を誇るドイツ北部の大都市で、「音楽隊」の昔からヴェーザー川から北海に通じる、今日でもハンブルクに次ぐドイツ第二の貿易港である。ブレーメン中央駅はパリのエッフェル塔と同じ頃の1888年に出来た。ヴェーザー川の畔で船着場で賑わっていた。巡礼者が、川から北海に出てサンチァゴ・デ・コンポステーラに行ったという。
聖ペテロ大聖堂(1042年)ここから町は始まる、という。1888年に改築される。私が質問して確認したところ、ここは名前の通りカトリックだったが、宗教改革でプロテスタントに改宗されたが、教会の建物はカトリック風で、大聖堂というのは「司教座」のことであり、司教が駐在していた。改宗にあたり司教の遺体は別のところに改葬されたという。ここだけでなく北ドイツの教会はすべて、そのようである。南ドイツでは今でもカトリックが多いが、この辺のところが南北ドイツの違いである。
ハンザ都市時代から賑わっていたマルクト広場を中心にして美しい歴史的建造物が並ぶが、市庁舎はハンザ自由都市としてのシンボルである。市庁舎の北西の壁際には「ブレーメンの音楽隊」像が見られる。

「ブレーメンの音楽隊」あるいは、音楽師と書かれることもあるが、これは有名な『グリム童話』──正しくは「子供と家庭の童話」(1812-57)──の第27話として収録されている童話である。
お話は、こうである。
年老いたロバが飼い主から見捨てられ、ブレーメン市の楽隊になろうと旅だつ。
途中で同様な境遇のイヌ、ネコ、雄鶏と、一緒になる。夜、森の中の泥棒の住み家へ着く。
ロバは窓へ前足をかけ、イヌがその背中に乗り、ネコはイヌの上に上り、雄鶏がネコの頭に止って、急にみんなの音楽をやり出す。
泥棒たちがお化けだと思って逃げ出した家で、動物たちは寝につくが、泥棒が様子を探りに帰り、ネコの目玉を炭火だと思ってマッチに火をつけようとするとネコに引っかかれる。裏口から逃げようとするとイヌに噛み付かれる。堆肥の傍でロバに蹴飛ばされる。雄鶏は怒鳴る。
泥棒は親分に<あの家には怪しい老婆がいて、長い指で引っかき、戸口では小刀を持った男が足を突き刺し、庭では怪物が棒でなぐり、屋根には裁判官がいて大声で怒鳴った>と報告したので、泥棒たちは二度とその家に帰らず、4匹はそのまま、そこに居ついてしまう。
という話である。この4匹がピラミッド型に上下に乗っかった像がブレーメン市庁舎の壁際に建っている。
グリムの「自注」によると、ドイツのパーデルベルンで収集された二つの話に拠ったものであるという。ドイツでは12世紀以後ひろく知られる話で、16世紀にはハンス・ザックス、ロレンハーゲンが物語っている。
類話は世界中に広く分布し、原産地はアジアと推定されるという。
グリム童話の「ならず者」「コルベス様」、日本の「サルカニ合戦」なども、その類話のひとつ。
話の中核は、数個の動物または品物がそれぞれの場所に隠れ、その習性に従って悪者を襲い、追い出しまたは殺すというもの。中核に至るまでは、仲間が一緒に旅をすること、悪者が弱い者いじめをすることなどが物語られる。仲間としてはロバ、イヌ、ネコ、雄鶏、雌鳥、カモ、サソリ、ハチ、留め針、縫い針、卵、栗、牛糞、石臼、しっくい、など。悪者としては泥棒、コルベス様、宿屋の亭主、オオカミ、サルなどが現れる、という。
(平凡社・世界大百科事典参照)

エッフェル塔と同時代建立、ブレーメン中央駅
エッフェル塔と同時代建立、ブレーメン中央駅
ブレーメン駅のホーム
ブレーメン駅のホーム

リューベック=ハンザ同盟の女王
塩などの交易で財をなした商人たちの手で造りあげられた町。
ホルステン門をくぐって町に入るが、この門は1464年から10年余りをかけて造られた。門に書かれるラテン語は「内は団結、外には平和」の意味と言い、通商で栄えたハンザの精神を、よく表現していると言えよう。市庁舎やマリエン教会、船員組合の家などが有名。ここに着いた夜は、この船員組合の家で夕食を摂る。メニューは魚料理とリューベック名物の赤ワイン(ロート・シュポン)。シュポン=樽、の意。ハンザの頃、近郊でとれる塩を樽に入れてフランスのボルドーまで運び、帰り船の時に、船のバランスをとるために空樽にワインを詰めて帰り、貯蔵しておいたらボルドーよりも熟成された名物の旨いワインになったという。

ホルステン門
ホルステン門
ラテン語の意味は「内は団結、外には平和」
ラテン語の意味は「内は団結、外には平和」

文豪トーマス・マンが少年の頃、祖父母の家で兄ハインリッヒと共に、よく過ごしたという。後年マンが、この町のことを「ブッデンブローク家の人々」の中で赤裸々に書いたので、一時、悪感情を、この町の人は抱いたが、現在は「ブッデンブローク・ハウス」として記念館になり、観光コースとなる。マンはこの作品でノーベル文学賞を受賞した。因みにマンは第二次世界大戦中はアメリカに亡命していた。
昼食はホルステン門近くの中華レストラン「天鵞閣」で。久し振りの東洋の食事でおいしい。帰りにマダムに「好好」と言ったら喜んでいた。

ブッデンブローク・ハウス
ブッデンブローク・ハウス
昼食の天鵞閣
昼食の天鵞閣

ドイツ・ハンザ同盟の話──
現在も「ハンザ自由都市」と称するのはリューベック、ハンブルク、ブレーメンの3都市だけだが、13世紀から17世紀にかけてドイツの商人たちが作り上げた、強大なハンザ同盟という都市同盟が存在し、ヨーロッパ諸国に絶大な影響力を持っていた。
始まりは、ドイツ商人の自衛手段だった。
ドイツの商人たちは、11世紀から北欧商業を積極的に発展させていた。ハンザとは、こうした旅商人の仲間のことであるが、「ハンザ」=団体の意味が元になっている。辞書を引くと、Hanseハンザは Scharから由来する、と書かれている。Scharとは軍隊用語では「隊」つぎの意味としては「群集」「多勢」を意味するという。
当時の海洋商業は、海賊による襲撃や嵐による遭難など危険と隣り合わせだった。リスクを少なくするため同じルートを航海する商人たちが結束するようになるのは、自然の成り行きだった。
1210年、リューベーックとハンブルクが商業同盟を結んだのがきっかけで、北ドイツの諸都市間で次々と同盟が結ばれるようになる。これが「ハンザ同盟」である。
北欧旅行をすれば、よく判るようにノルウェーのベルゲンなどはハンザ商人の最前線の拠点だった。単身で行った商人が現地の女と一緒になり、その地にとどまるようになって発展したのが今のベルゲンの町である。
そのようにしてベルゲン、ブレーメン、ケルン、ブラウンシュバイク、ダンツィヒなども加盟していくようになる。初期の同盟には商人を守る経済的な「商人ハンザ」と、都市同士の政治的な結びつきのある「都市ハンザ」の二種類があったが、14世紀に入ると、それらは統合され、「ドイツ・ハンザ」を名乗るようになる。リューベックでハンザ会議が開かれるようになり、ロンドン、ブルージュ、ベルゲン、ノヴゴロドにも商館を置いて、必要に応じて、そこでも会議が開かれた。14世紀後半から15世紀にかけてハンザ同盟は最盛期を迎え、これら商館を中心にロシア、東ヨーロッパの毛皮や蜂蜜、蝋、木材、スカンジナビア地方の干タラや塩漬けニシンをはじめ、オリエント商品やイギリスの羊毛、ドイツのワイン、穀物、手工業製品などの取引が盛んに行われた。
それは、あたかも「一つの国家」のごとく存在した海の帝国とも言えるものだった。
ヨーロッパ諸国はドイツ・ハンザを国家と見なして同盟を結んだり、商業の独占を脅かす勢力と戦火を交えることもあった。ドイツ・ハンザは強力な軍事力も擁していたのだ。例えば、ハンザとの戦争に敗れたデンマークは、王の選出にもハンザの承認が必要になり、ズント海峡の通行税を免除せざるを得なくなってしまった。こうして北海、バルト海の商業利権を独占したハンザ同盟は「海の帝国」と呼ばれるようになった。
最盛期には200以上の都市が加盟し、思うままに支配して来たドイツ・ハンザだが、同盟内の対立やドイツ諸連邦の成長、さらにはイギリス・オランダによるハンザ商人排除の動きなどで、徐々に衰退に向かい始める。
これは大航海時代という地球規模の航海と貿易の時代に突入したうえ、イギリスでは「産業革命」が起るなどの大変革の時代に対応できなくなったからである。
多くの都市が連邦国家に帰属し、1669年のハンザ会議を最後に400年以上にわたる同盟は事実上、解体した。
三十年戦争以降も、ハンザ都市の名称と自治権を維持しているのは、リューベック、ハンブルク、ブレーメンの3都市のみである。
リューベックの街への入り口のホルステン門(トップの写真)に掲げられるラテン語の文字 CONCORDIA DOMI FORIS PAX (内は団結、外には平和) は盛時の名残りである。

この「ハンザ」という名称は、ドイツ人たちには名誉な伝統として受け継がれ、例えば、「ルフトハンザ航空」は、この名誉ある名を受け継ぎ、現代版のルフト(フライト、翼の意味)として、世界に雄飛しているのである。

ヴィスマール=ガイドブックにも載っていない古い小さい港町
旧港、マルクト広場、ニコラウス教会、スエーデン統治時代の司令塔跡、給水塔、ニコライ教会など。マルクト広場に面した、町で一番古い建物の現在は喫茶店でカプチーノを呑む。あとは16時に集合して今夜宿泊のロストック郊外のヴァルネミュンデのホテル・ネプチューンへ。

ホテル・ネプチューン=バルト海の豪華リゾート
ヴァルネミュンデなどという地名は地図にもガイドブックにも載っていない。辺鄙な場所に泊らされると思っていたが、バルト海の砂浜に面した五つ星の新築の豪華ホテル。少し離れた港には大きな客船が停泊している。恐らくは夏のバカンス客を、バルト海に面した、この場所に遊ばせたいという魂胆だろう。ホテルの支配人が添乗員の横山氏を捕まえて、「次には、いつ来るか」と、しきりに催促している。
夕食は14キロ離れたロストック市内の市庁舎(ラーツケラー)のレストランで。
ドイツに行けば、レストランに困ったら、どこでも市庁舎の中のレストランに駆け込めばいい。

ホテル・ネプチューン
ホテル・ネプチューン

ロストック=旧東ドイツの都市
ロストックではIGA2003(国際ガーデニング・アソシエーションの略か)のガーデン博が開催中。ガイドさんと一緒に延々と7000歩余り歩く。会場の端は砂浜になる。DB(ドイツ国鉄)の線路沿い。高速道路も近い。ドイツ人の合理的精神に脱帽。
ロストック市内は旧市街のクレーペリン門、ロストック大学本館、聖マリエン教会、市庁舎などを見学。
昼食は魚料理の「ツア・コーゲ」で。ビールの種類が三つあり、バーテンに相手になっていたら、三種類を少しづつ持って来てくれたので、チップを5ユーロあげる。ランチョンマットとナプキンを、たくさん呉れたので、みんなに配る。音楽のCDも呉れた。何でも話しかけてみるものだ。
後は一路187キロ走って、最終地ハンブルクへ。
ハンブルクから始まる「エリカ街道」のことだが、荒涼としたハイデ(原野)に8月中旬から9月中旬にかけてエリカの群生が見事に観られることに因む。

ハンブルク市──
ハンブルク市の正式名称は「自由ハンザ都市ハンブルク」という。ベルリンに次ぐドイツで二番目の大都市というから人口も多いだろうが現在の人口は判らなかった。
ドイツの航空路の中心であるフランクフルト空港から丁度1時間の飛行時間である。
歴史的にはハンザ同盟の中心的な存在であった。
808年にカール大帝が城砦を築いたことに始まり、13世紀から15世紀にかけてハンザ同盟の最盛期だつた。
1943年に連合軍の空襲で徹底的に破壊されたが、それも北ドイツの大工業都市として、港湾都市としての存在が目障りだつたからだろう。戦後の復興は早く、世界的な一、二を争う造船業の町だったが、HPにも書いたが、日本などに追い上げられ衰退しかかった時に、いち早くコンテナ輸送の将来性に気づき、産業の転換に成功して、今日ではヨーロッパのトップクラスの港湾都市として繁栄している。
また、作曲家メンデルスゾーンとブラームスの生地でもあり、同行者の女の人数人は、「ブラームスハウス」へ立ち寄ってゆかれた。そんな訳で音楽や文化に盛んな町だという。
旧市街は市庁舎、聖ミヒャエル教会などを中心にした地域で、アルスター湖の畔などには新市街が広がる。
ここも空襲で徹底的に破壊されたというが、古い建物は元の姿に忠実に再現してある。これはポーランドのワルシャワの旧市街なども同様の考えで再興してあるが、ここらにドイツ人の伝統に対する思想というものを見せつけられる。

ハンブルクの町はエルベ川の下流にあるが、この川はチェコのボヘミア山地に源を発し、チェコでは「ヴルタヴァ川」(英語ではダニューブ川)と呼ばれ、首都プラハの真ん中を流れ、カレル橋など多くの歴史的文化遺産にまつわる。ドイツに入ると、「エルベ川」と名前を変え、ドレスデンの街中を流れ、ここでも旧市街などの歴史的建物にまつわる。
エルベ川と言えば、第二次世界大戦終結の頃に、西から攻める米、英、仏連合軍と東から攻めて来たソ連軍がこの岸辺で遭い、がっちり握手したという「エルベの誓い」という言葉で知られる、その後の「東西冷戦」など考えられないような、感動的なシーンがあつたことが思いだされる。
エルベ川はベルリンは通らない、というのはベルリンはドイツの東の端もいいところで、もうすぐポーランドという場所にあるからだ。
エルベ川は大きな船も航行できる国際河川で、ハンブルクの辺りでは川幅も広く、対岸は霞んでいる。現地の港の様子を、この目で見ると、大貿易港という呼称も肯定できる。
大きなアルスター湖は内湖と外湖に分かれるが、きれいな水をたたえて、市民の憩いの場所として絶好のレジャー地であろう。
ここでの宿泊のホテルはメリディアンホテル(スティルホーンという)だったが、アウトバーンのランプのすぐ脇で、高速道路利用のビジネスマンたちの宿泊者が多かった。
私が昼食に利用した市庁舎の地下のレストラン「ヴァインケラー」は魚料理で有名なところ。ドイツ、オーストリアなどでは、どこでも市庁舎(ラートハウス)の中にレストランがあり、内装も時代を感じさせる由緒あるもので、ここでの食事をお勧めしたい。

ハンブルク外港
ハンブルク外港
ハンブルク市庁舎のヴァインケラーでの食事
ハンブルク市庁舎のヴァインケラーでの食事

ハンブルク=ベルリンに次ぐドイツ第二の大都市=アルスター湖
ヨーロッパ有数の港町、貿易港。もともと造船業の盛んな都市だったが、日本や韓国に負けて衰退しかかった時、いち早くコンテナ輸送の将来性に着目し転換に成功する。
正式名称は自由都市ハンブルク。ここにも昔のハンザ同盟以来の自負が見られる。
町に入る高架の橋からの眺めは、広い外港、旧港が靄に霞んでいる。
ミヒャエル教会、アルスター湖の岸べをバスで廻り、市庁舎前で解散。一人でラートハウスの中のヴァインケラーで昼食。魚のフィレの皿とブラウンビール二杯、カプチーノで21ユーロ余だった。ここではカードで精算したが、(チップは現金)どうなったのかカード会社の請求は未だに来ていない。ハンブルク中央駅まで歩き、構内の写真を撮り(私は駅の写真が好き)隣接の市立美術館(3館共通、一館は修理中)7.5ユーロでゆっくりと観る。マカールトの1800年代の大作など。現代美術の方は過激。現代美術館の中のコーヒーハウスでカプチーノを呑み、中央駅前からタクシーでホテルへ18ユーロのところを20ユーロあげる。丁度16時。駅構内で買って来たサンドウィッチと缶ビールで夕食代わり。
翌日朝、ハンブルク空港発、フランクフルト経由で成田へ帰国する。

ハンブルク中央駅
ハンブルク中央駅
ハンブルク中央駅プラットフォーム
ハンブルク中央駅プラットフォーム

(完)

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