目次

***同人誌『霹靂』(かむとき)のページ***

14号(2002年5月)掲載
阿音の形而上学

神の書は栞のやうにさざめきて月下の川を流るる脳
                         脳=なづき

革命を信じたき男であるゆゑにきらきらと死も神の恩寵
                            男=を

月光は清音 輪唱とぎるれば沈黙の谷に罌粟がほころぶ
                  清音=きよね  罌粟=けし

どの位置が地の果てならむ死を語る舌を漱げば慟哭も透け

かたすみに滴る聖戦と言へる名の垂線なせる経典ありぬ
                         聖戦=ジハード

勇気こそ地の塩なれや梅一枝仰臥の死者の辺に添へられつ

<地の意思を空に刻みて冬木立つ>男ごころと言ふべし 冬木
*馬場駿吉

連理問ふ樹も人も遥かなり孤を掲げてぞわれら夏色
                        樹=いつき

春山のかすみの奥に逃れたる雄鹿のことも伝へ聴くなり

阿音の形而上学知らぬまま女男は阿とし吽と息する
                          女男=めを

おぼおぼと春の宵月赤ければ土龍は土をもくもく盛りぬ
                           土龍=もぐら

沙羅の花ひきずるものがあるゆゑに生は死の一部かと真昼間

転がれる白桃思慕をあらはにす唇うばはれ易き薄明

入りつ陽のひととき赫と照るときし猛々しく樹にのぼる白猫
                     赫=かつ 白猫=はくべう

逢ひたいと書けば滴り落ちる青饒舌な暗喩の過去形だつた

断章(パガテル)なんてオリゴスペルミア(乏精子症)
みたいに無意味なものだ。と或る所に書いた。
短詩形文芸は言わば衝撃性をもつ表現形式であるが、
この暗喩がひどく空虚にひびくことがある。
この韻文としての特性を喪失したとき、詩歌はゴム
の弛んだパンツのようにだらしない。
今の世はつくづく散文的な明け暮れだが、その倦怠
の夢をぶった切ったのが九月十一日ではなかったか。
散文に負けない佳い韻文をものにしたいものだ。


13号(2001年9月)掲載
時を掴め

ケイタイのゆきわたりたる此の日頃話しはじめは<今どこやねん>

一つ得て二つ失ふわが脳聞き耳たてても零すばかりぞ
                  脳=なづき 零す=こぼす

七年が八年待ちても音沙汰なし韃靼海峡を<蝶>渡りゆき

重たげなピアスの光る老の耳朶<人を食った話>なども聴きゐる

女男かたみに溺愛しあひて漂ふも宇宙の塵となるまでのこと
                             女男=めを

手の傷を問ふ人あれば火遊びの恋の火傷と呵々大笑す

キッコーマン醤油ぢや空は描けないよ レモン一顆のやうな月でる

これも愛?林檎の皮をむいてゐる紅茶は美しい琥珀色に淹れて

小鳥には餌をすこし花には水を愛はさりげなく「さあ召しあがれ」

沙羅の花ひそかに朝の地に還りつぶやく言葉はウンスンかるた

枯るることいとたやすけれ胸奥に修羅いだきつつつ爪を剪りゐつ

クールベのゑがくヴァギナの題名は「源」といふいみじくも言ふ
                             源=スールス

<時を掴め>直訳されて何のこつちや即ち<今を生きろ>つてこと
                      時を掴め=カーペ・ディエム

泥遊びを嫌ふ子供の殖えしといふ新世紀の泥いよよ深きに

<音楽の一楽章のやうに埒もない>スヰートピーよ出立しよう
*ランボォ

いま記憶がよみがえって僕の冥いところがるつぼのように
燃えたっている
僕は拝火教徒だ
ナジャ
あなたの手が
僕の記憶の冥いところを
しなやかに泳いでいる
そして僕は
あなたのその華奢な手がみびいていく
冥さのなかで
精妙な音楽を聞き
風景に出会っていく     真辺博章詩集『光と闇』
---ナジャの手紙---より        

**時 評**
短歌以前 −−木村草弥の歌集のトポス(共通場)−− 南日耿平

プロローグ
『霹靂』(かむとき)はもとの『鬼市』という名を変えて、その通巻として出発したが、
のちに短詩型文学全般にも通じる新しい視座へと拡大され、俳句の堀本吟さん、川柳Z
賞受賞の樋口由紀子さん、碧梧桐賞受賞の異色作家・森山光章さん、そして僅か十年の間
に三冊も歌集を出された木村草弥さんなど多彩な作家たちによって、新しくスタートが切
られたのです。
新世紀をむかえ、『霹靂』の天空での大音響の現出に、佐美雄、冬彦、赤黄男、重信など
の先駆者の方々の拍手喝采が聞こえそうであり、短歌一首も作っていない私にとっても新
しい<共時的詩的世界>への開眼の機をいただく思い。
何故私がこうした文芸の世界に興味をもったかは、五十年前、体育、スポーツの研究者と
して<愛と美と力>のデルタ構造で未来像をかかげ、<スポーツ美学論>を初めて講義題目と
して講じてきたこと。昨年、「新世紀スポーツ文化論」(タイムス社)で、<スポーツ曼荼
羅>の胎蔵部として、宗教・哲学・芸術。金剛界として体育学、スポーツ人約150名の方
々を五芒星形図として、図像学的(イコノグラフィー)手法で示し学会発表の機を得た。
本文の「短歌以前」の表題も、短歌音痴の私が、短歌の技法でなく、その深層部に秘めら
れた歌人・木村草弥さんの独自の境位を、私なりに楽曲分解(アナリーゼ)させていただい
たものとしてご笑覧いただければ幸いです。

(一) 木村さんの短歌作品の胎蔵部
木村さんとの出会いで驚いたのが、お住まいが山城の青谷村。私が三十代、三年も結核で
お世話になった国立の療養所のある茶処の問屋さんのお生まれで、また府立桃山中学校の
第23回卒。私が6回卒ということで二度びっくり。さらには長兄が、<兄の書きし日記を
もとに書かれたり太宰治の『パンドラの匣』>の作品にみられるよう夭折されたのも同じ
療養所だったと思われること。
早世の兄・木村庄助さんも弟の草弥さんが文学の血を引き継いでいることを喜んでおられ
るだろうと、「未来」の川口美根子さんが第一歌集の序で述べられるよう感性ゆたかな芸
術一家。兄上が京都大学に学ばれ、美術評論家・阪大教授でもあった木村重信先生(現在
兵庫県立近代美術館館長)がご生存とわかれば、世阿弥の<稽古の位>をこえた<生得の位>
にめぐまれた方、非凡な才能ゆたかな詩人・歌人・評論家。
先日、十年前『日本歌人』同人の横田利平さんの歌集『宇宙浪漫主義へ』での利平美学の
極みとしての<いまいまやいまいまいまやいまいまやいまいまいまやいまいまや我>をお送
りした所、これはセックスに於けるエクスタシーの瞬間(道元では<有事>(うじ)空海の<理
趣経>の十七清浄句の<妙適>の世界)と断じられ驚いた所。
一休の『狂雲集』におけるかずかずの作品は、第二歌集にはこれに関連十一首もあり、仏
典に関する御研鑽の広さと深さに驚くのみ。なるほどフランスの仏は仏教にも通じるかと
ほほえまれるしだい。
さらに、この「理趣経・十七清浄句」についての金岡秀友師とその弟子の論争の事も示さ
れた学識の深さに、長年空海の世界にあこがれ文献を集めていた老生とも照合するものと
先の七月の草田男をテーマとした短詩型文学を語る会に、横田さんの歌集への私の『日本
歌人』へ発表した感想文をお配りしたのです。その木村さんの冴えわたった感性・直感力
の非凡さには驚くのみです。
医学の近藤俊文博士の『天才の誕生−南方熊楠の人間学』にかかれた「ゲシュビント症候
群」とも照応、俳句の岡井省二先生と同じ天来の霊的人間(ホモ・スピリチュアーリス)の
天性。
第四にかかげたいのが木村さんが現代詩から短歌に転向されたこと。歌人・前登志夫さん
も私と共に敗戦後、奈良より詩誌《斜線》を出していましたが、詩集『宇宙駅』を残して
短歌に転じ、あっというまに歌壇に新風をおこされた吉野山住みの快男子。迢空賞受賞の
とき恩師代表で祝辞を求められたことが忘れられません。木村さんが文語定型、口語律、
定型、非定型にこだわらぬ自由多彩な韻律世界に遊んでおられるのもこの故と思います。
五番目にあげたいのは、木村さんが外語、京大の仏文科に学ばれたこと。九鬼周造の『い
きの構造』にも似てヨーロッパで一番あかぬけしているフランス語を学ばれ、更には全世
界を旅されたコスモポリタン。スケールの大きさは格別。やっておられないのは宇宙遊泳
のみ。この世界を埋めようと遊んでおられるのが木村さんの新しい短歌的世界。
先の短詩型の会に御来会の津田清子さんの句集『無方』で詠まれた<はじめに神砂漠を創
り私す><自らを墓標となせり砂漠の木><女には乳房が重し夜の砂漠>とも共鳴するコスモ
ロジーの世界が感じられてなりません。
木村さんは、一口で申せば静かな熱血漢。情感ゆたかなロマンと強力な実践力。只今は同
じ山城地区の法蓮寺にお住まいの山本空外先生の書法芸術に心酔。ハイデッガー、ベルグ
ソン、フッサールと共に学ばれた哲学者であり、その書は書家の書とは異なる<書法>とし
て出雲に<空外記念館>もある方。
幸い、黒谷住の戸川霊俊博士とは二十年前より御指導いただいているので空外先生につい
て御教示いただくよう予定している所。御年九十九歳。私も空外ファンの一人であり、偶
然の一致に驚いている所です。

(二) 木村さんの歌集について
第一歌集『茶の四季』(1995年)は、茶問屋の社長ながら、土耕、茶摘み、製茶などの実
務にたずさわり、茶道をたしなみながらの体験の中から生まれたもの。五章からなるが、
家族や山城の風光の他、海外旅行詠と多彩。<茶畑はしづかに白花昏れゆきていづくゆ鵙
の一声鋭し>の見事な序歌から始まる。好きな歌は、<茶に馴染む八十八夜のあとやさき緑
の闇に抱かれて寝る>、<茶の花を眩しと思ふ疲れあり冬木となりて黙す茶畑>
川口美根子さんの「俳諧的な魅力さえ感じさせる」の言葉に同感。
<兄の書きし日記を元に書かれたり太宰治の『パンドラの匣』>、<葬り終へ寝ねたる妻が
寝言にて姑との別れを嘆きて叫ぶ>、<汝が額の汗をガーゼでぬぐひつつ不意にいとしく掻
き抱きたし>、<原始の美を尋ね求めて駆けきたる兄は「大地の人(ホモ・フムス)たれ」と
唱ふ>の家族の歌につづいて、外国旅行の歌がうたわれている。中国での<ふたたびは訪ふ
こと無けむ竜門の石の洞をぞ振り返りみつ>は戦争で雲岡の石仏群近くまで行った私とし
てはなつかしい限り。<ワルシャワのショパンの館に来て聴くは祖国追はれし「別れの曲(し
らべ)」<さびしさを青衣にまとひエーゲ海の浜辺に惑ふ「沈思のアテナ」>なども四十年
前ヨーロツパで学んだことのある私としては感激ひとしお。<六人の乙女支ふる露台には
裳すそ引きたる腿のまぶしさ>。スペインで詠まれたフラメンコの踊り、ガウディの作っ
た教会の尖塔の歌など、さすが美の世界を一瞬につかまれる見事な「視覚構造」と嘆ずる
のみ。
第二歌集『嘉木』は、中国の古書の茶の木を詠まれたもの。『茶経』の出だしに「茶は南
方の嘉木なり」と記されているよう、日本の茶道の源流としての利休につらなる家元体制
であるとも記されているが、<明日のため見ておく初夏の夕焼は茶摘みの季の農夫の祈り>
にはじまり<汗あえて茶を刈る時にそぼつ身を女神のごとき風通るなり>とし、<茶の湯と
はただに湯を沸かし茶をたてて心静かにのむばかりなり>と詠じて、自らは「番茶道」を
提唱されているのも独自の木村さんの、形式化した家元を頂点とするヒエラルキー体制批
判として注目されます。
興味あるのは、一休(宗純)を詠んだ<夢に見て森女の陰に迷ひ入り水仙の香に花信を覚ゆ>
<風狂と女犯にふける宗純は妙適清浄これ菩薩なれ>と空海の理趣経につながっていると見
立てた眼力。
秘めごとめく吾−沓冠十五首−からは、現代短歌に未来はあるか、として展開。
<いなづまのびりりと裂きし樹の闇を殻もゆらさず蝸牛ゆく音>、<フランスのをみなが髪
をかきあぐる腋あらはにてむらさき匂ふ>、<場所(トポス)はもペロポネソスに満ち満てる
悦楽の言辞(トポス)に通ふと言へり>、<白桃に触れたる指をいとしみてしばらく宙にかざ
しゐる宵>、<汗匂ふゆゑにわれ在り夏草を刈りゐたるとき不意に思ひぬ>、<季節くれば
花を求めて飛んでゆく美しき翅よ うす青き蝶>、<失せもののいまだ出でざる夜のくだち
和紙の吸ひゆくあはき墨の色>、<牧神の午後ならねわがうたた寝は白蛾の情事をまつぶさ
に見つ>、<病む妻のため娘らはひたすらに石切神社にお百度を踏む>、<人知りて四十年経
ぬ萌え立てる君は野の花ムラサキハナナ>、<引退はやがて来るものリラ咲けばパリの茶房
に行きて逢はなむ>など、心にしみこむ秀歌が、それぞれの韻律と木村さんのいう<幻の領
域(トポロジー)>として<ゆほびかに>展開されている。
第三歌集『樹々の記憶』は、序で宮崎信義さんが述べられているよう<定型の魔力>からの
脱皮・転進・挑戦。デリダ流に言えば「短歌の脱構築」新短歌への序曲と申せよう。
巻頭<茶どころに生まれ茶を離れられない 茶の樹の霜が朝日に白い>、<季節(シーズン)
は春から夏へ蒼ぐろい樹の場面転換(ディゾルブ)にいそしんでいる>、ルビが外国語にな
っている。
<わたくしが愛するものは仮借なき攪拌だとは挑発的(プロヴォカティヴ)ね>、<美しく老
いる そんな言葉は糞くらえだ 美しい老年などどこにある>
一字あけの三段構成に注目されたい。
<瞬間(とき)の迷路を辿れば ここは何処? 地平線まで歩いてゆこう>と<?>が入る。
<にじむ脂汗の不眠の夜 墓標の在処(ありか)は教えるな>の歌には高柳重信の俳句が思い
出される。俳諧の二段構成。<沈黙の中で長く枝分かれしてゆく夜の闇−それが時間>-----
断章(パガテル)への郷愁。<私は一つの場所を探している 墓をつくるばかりの広さの>、
<死は甘美か 生者と死者の間に月がのぼる 死は甘美だ>-------くりかえしの美学。
<そり うねり 巻き込み 波うち ちぢれ 花の肢体>六つのシラバス構成。<秋だ 鉄
道の白い柵に電車の音にみじろぎもせず野菊は咲いていた>自由律。メルヘン的な詩秋の
詩。
木村さんが、あとがきで申されるよう、この第三歌集は、自由律短歌へのかずかずの挑戦
の詩。現代語なりの韻律に<現代の非定型・自由律運動の目標>とされる<短歌的自由詩>と
しての新しいポエジーの波動を目指す絵画的な「コラージュ」あるいは「パロディ」と記
しておられるのも、あるいは兄上・木村重信先生の影法師かも知れない。
問屋を娘さん夫婦にまかされ、これからが自由の身で、「方円宙遊」の新しい詩(ポエジ
ー)の歌、つくって下さい。

コーダ
短歌の木村草弥さんとの奇しき邂逅は、俳句の岡井先生と共に、私にとってはまこと有難
い御縁と感謝しています。お二人とも、デリダの「脱構築」--------奇しくも道元の<身心
脱落>にも共響する自在自由な新天地めざされ、新風を目覚めさして下さいました。
益々の御活躍をお祈りしています。
(奈良教育大学名誉教授・近藤英男)


12号(2000年12月)掲載

ダビデの星  (イスラエル紀行のページの作品と重複するので省略)

三界の狂人は狂せることを知らず。
四生の盲者は盲なることを識らず。
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終りに冥し。  ---空海---

この詩は、コスモロジーへの契機となる<消滅>の途方もない
暗さを暗示しているように聞える。
自らを含めて、あらゆる存在が消滅に向かっているとする
ならば空怖しさもまた無限に近いといえるだろう。
(富岡和秀)


11号(2000年3月)掲載
雌雄異株

なきがらを火の色つつむ頃ほひか盃を止めよ 声を絞れよ

須勢理比売恋せし色かもみぢ散る明るむ森を遠ざかるとき
                    須勢理比売=すせりひめ

いつか来る別れは覚悟なほ燃ゆる色を尽して蔦紅葉せる

こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする

*聖武帝の皇子・安積王 17歳で744年歿
わがおほきみ天知らさむと思はねばおほにそ見ける和豆香蘇麻山(大伴家持・万葉集第三・476)
秋番茶刈りゆく段丘夭折の安積親王葬られし地
                安積=あさか  地=つち

このあたり黄泉比良坂といふならむ通夜のくだちに文旦を剥く
黄泉比良坂=よもつひらさか

-----白鳳4年(676年)役行者42歳厄除けのため-----
役小角の開きし鷲峰山金胎寺平城の都の鬼門を鎮めし
           役小角=えんのをづぬ  平城=なら

無住寺に人来るけはひ紅葉に視界よくなったねと声の聞こえて

日おもてにあれば華やかもみぢ葉が御光の滝に揺るる夕光
                          夕光=ゆうかげ

-----正安2年(1300年)建立の文字-----
宝篋印塔うするる文字のかなたより淡海の湖の見ゆる蒼さや
                                湖=うみ

つくばひの底の夕焼けまたひとり農を離るる転居先不明

いくたび病みいくたび癒えし妻なるか雌雄異株の青木の雌木

古唐津で茶を飲むときに心弱りの妻が横向き涙を拭きぬ

厨べの灯が万両の実を照らすつねのこころをたひらかにせよ

億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし

かつて日本では自然界と人間界の境が定められていた。
村々の入口には柱が立てられ、それは神の国と人間の国との結界となった。
さて、神を祭る神社の「鳥居」の鳥はカラスらしい。
神社の千木の上に「カラスどまり」と呼ばれる場所がある。熊野大社には
ヤタガラスが祭られ「魂を導く鳥」だと言われる。
海を隔てた北米大陸の黒潮がぶつかる場所にもカラス伝説がある。
このような神話体験が世界各地にあるというのも面白いことだ。


10号(1999年6月) 掲載
国原-----インド・日本、冬から春へ-----

天霧らひ山たたなはる峡村は畳々とつらねて冬の棚田の
                              峡=かひ

ふたたびは逢はぬ人かも胞衣塚は石重ねたり 和讃こごゑせよ
                               胞衣=えな

叙事抒情これを創りしものを讃むマハーバーラタ、ギーダ・ゴーヴィンダ
                                  讃む=ほむ

男根に花輪を捧げ燭を供ふるサリーの女よ<道順は彼女に訊く>
                             男根=リンガム

AD その時代区分などしゃらくせぇBC二千年モエンジョ・ダーロだ
                              AD=アノ・ドミニ

人はみな自が守り神を持つと言ひ運転手はバスに香を焚きをり

象神は富をもたらす神となる父シヴァ神に首すげ替へられて
                           象神=ガネーシャ

インド洋プレート押し来る亜大陸その地溝帯をガンガー流る

ガンガー地溝に堆積する土砂二千メートル平均勾配一キロメートル当り十四センチ

恒河に死を待つ人が石階ゆ喜捨を待つなり乞食と紛ひ
                 恒河=ガンガー 乞食=こつじき

しづけさのひかりとどめて天竺葵咲き男は不意に遺されゐたり
                          天竺葵=ゼラニウム

薺咲く道は土橋へ続きけりパールヴァティは花を抱へて
                         薺=なづな

コーダル川の畔にカジュラホー村ありぬ天女ミトゥナの愛欲や濃き
                              天女=アプサラ

手放しにのろけてもみよマハーデーヴァ寺院の壁の女神の陰は
                                 陰=ヨニ

数学は難解クローバーの園に編めるも愛しかの日のレイは
                             愛し=かなし

ミトゥナのアクメのさまを彫りけるはシャクティ原理のタントラの道

背位ありクリニングスあり壁面に説かれてゐたるカーマ・スートラ

桜草や男弟子けふ入門すそしらぬ顔の女弟子たち
                     桜草=プリムラ

ガンジーの屍を焚ける火葬場ゆこの国に暗殺多きは如何に
                火葬場=ガート  暗殺=アサシン

驢馬駱駝徒歩ゆき自転車のろきバスゆき警笛かしまし

<警笛をどうぞ>遅速緩速さまざまの人馬ゆき交ふ時速十五キロメートル
                        警笛をどうぞ=ホーン・プリーズ

たまきはる命をここに節分会の真白き紙の人形を截る
                     人形=ひとがた

白毫寺みち遠けれどこれやこの題辞に何をエピステーメー
                         題辞=エピグラフ

このあたりもと宇治郡しろがねの衾の岡辺はこべ萌え出づ
                   郡=こほり  衾=ふすま

土筆生ふ畝火雄々しも果たせざる男の夢は蘇我物部の
                          土筆=つくし

あり無しの時の過ぎゆく老い人にも村の掟ぞ 土筆闌けゆく

野火止の焦げしはたてに生を祝ぐ脚長うして土筆の出でし
                            祝ぐ=ほぐ

夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず

淋しさのあるとき惨め酸葉を噛めばことごとく指弾されゐて
                           酸葉=すかんぽ

当麻道すかんぽを抜き噛みにつつ童女の眸も春風のなか
                              眸=まみ

*固有名詞の解説*
『マハーバーラタ』はもう一つの『マーラーヤナ』と双璧をなすヴィーヤーサ仙の
作とされるBC数世紀からAD4世紀までに編まれたインドの叙事詩。
『ギータゴーヴィンダ』(牛飼いの歌)は最高神ヴィシュヌの十の化身の一つクリシュナと
牛飼い女ラーダーとの恋物語を書いた12世紀の詩人ジャデーヴァの抒情詩。
<道順は彼女に訊く>は片岡義男の長編ミステリーの題名から借用した。

**エッセイ**
インド文学散歩

1999年の正月休みを利用して北インドを9日間旅した。もちろん短期間のことであり、
テーマのある旅ではなく単なるツーリストに過ぎないものであるが、以前から書物を通じ
て知っていたことを自分の目で確かめられてよかったと思っている。
少しインド文学について書いてみたい。
1913年にノーベル文学賞を受けた、ベンガル(東インド)の詩人タゴールの定型詩集『ギ
ータンジャリ』(歌の捧げ物、の意)の冒頭の詩は
わが頭(かうべ) 垂れさせたまへ 君がみ足の 塵のもと (渡辺照宏訳)
で始まる。この「君」と親しみと敬意をこめて呼びかけられるのは他ならぬ神である。
この神とは、古代インドの神秘的な教説ウパニシャット、中世インドのヴィシュヌ神信仰
に根ざす、と言われている。
この詩は、叙事詩ではない。分類すれば抒情詩と言うべきだろう。タゴールは神の姿を描
くのに、そのような伝統の継承にとどまらない。
彼は「このバアラタ(インドのこと。インドという命名は西欧人がつけたもので対外的に
はリパブリック・オブ・インディアのように使用されているが、今でもインドの正式名称
は、このバーラタとされる)の人多(さわ)の海の岸辺へアアリア人もアナアリア人もドラ
ビタ人も------一つとなりぬ」(渡辺訳)と、インドの諸民族の融合のさまを確かめながら、
人はすなわち神だ、としている。そしてまた、インドを呪縛している身分制度のさまを
「痛ましわが国 人が人を侮るゆゑに汝侮らるべし 衆人(もろびと)とともに人並の扱ひ
を人々に拒み」と見据えて、近代インドの現実に強い批判を加えている。
だが現代のインドの現実は、身分カーストの上に職業カーストが二重に存在して、がんじ
がらめとなっている。このカーストの下には更に、アンタッチャブルと呼称される不可触
賎民も存在するのである。貧富の差は大きく、75%の人が住む農村は貧しい。農村と言
わず都市と言わず巷には人口9億と称する人間があふれている。
筆が脱線したが、タゴールの故郷シャーンティ・ニケータンはカルカッタの西へ列車で
4時間の地だが、この地名は「静寂の地」「平和郷」という意味らしい。インド人は宗教的
なめでたい時に「シャンティヒ」を三度唱えるという。この地はタゴールの父デーヴェン
ドラナートが1863年に、真理探究のためにアーシュラム(道場)を開設したのがはじまりで、
タゴールが小さな学校を作り、ノ−ベル賞の賞金で学校を拡充させた。この学校は1921年
にヴィシュヴァ・バーラティ大学に昇格、41年にはインドの五つの国立大学の一つに
なった。
すべての存在の中に神を認めるというタゴールの「汎神論」は自然愛、人類愛の思想と
一体であるとされる。日印の文化交流に貢献した岡倉天心とタゴールとの親交はよく
知られている。
また岡倉天心(覚三)と詩人プリヤンバダ・デーヴィー女史との「愛の手紙」は『宝石の声
なる人に』(大岡信訳)という本になっている。これはタゴールとの交遊の派生によるもの
だが、この「宝石の声なる人に」という呼びかけは1913年8月21日付の覚三の手紙のは
じめのイントロである。そして、この手紙が最後のものである。
この本が出版されたのは1982年10月平凡社刊であり、フランス装であるために本の
ページをペーパーナイフで切りながら読んだのを思い出す。
詩の一節は
いつ私に初めて関心を持ったのですか。カルカッタを出発した後、
それとも---------             (デーヴィー)
私は終日、浜辺に坐し、逆巻く海を見つめています-------------------
いつの日か、海霧の中から、あなたが立ち上がるかも知れないと
思いながら。                 (覚三)
タゴールの「汎神論」というのは何も彼一人のものではないことを、インドを旅すると、
実感させられる。
例えば、ヴィシュヌプールという町がある。これは先にも触れたヴィシュヌ神の住む町と
いう意味である。「プール」と語尾につくのはヒンズー教に由来する地名である。ほかに
「バード」と語尾につく地名はイスラム教に由来することを示す。(例えばハイデラバード
など)このことは旅の全行程を共にしたインド人ガイドのメーラ君に聞いた。
ヒンズー教は本質的に多神教である。神様の数は枚挙にいとまがないが、シヴァとヴィシ
ュヌとブラフマーが古来より三大神とされる。
シヴァ神は荒ぶる神である。しかし、恵み深い神でもあり、また踊りの名手で「ナタ・ラ
ージャ」と呼ばれ舞踊を志す人々は、この踊るシヴァ神を信仰する。
ヴィシュヌは太陽の光を神格化したものとされ、十あるいは二十四の化身を表すに至る。
仏教の開祖ゴーダマ・ブッダもその一つとされる。ヴィシュヌ信仰がインド全体に普及し
たのは、この化身の思想による。
ヒンズー教のバイブル『パガヴァット・ギーター』には、「道徳が衰え不道徳が栄えるた
びに余は自身を創出する」と説かれる。この考えによりヴィシュヌはさまざまな姿をとっ
て世の人々を救うのである。
インドを旅するとヒンズー教寺院の薄暗がりに、ぬっくと立つリンガに出会う。さらに目
をこらせば、リンガを包む丸いヨーニがある。
「リンガ」(またはリンガム)も「ヨーニ」(またはヨニ)も共にサンスクリット語でそ
れぞれ「男根」「女陰」を意味する。リンガはシヴァ神をシンボライズしたものであり、
すべての生きとし生くるものは男性原理と女性原理の合一によって万物の生成を見るから
である。
因みに私は、サンスクリット語というのは中世の言語で、現在は死語だと思っていたが、
西インドのプーナ大学で博士号を得られた阿部慈園氏の本を読むと、インド全土でサンス
クリット語を自由に会話、読み書き出来る人が五千人はいるという。1990年代の現在
の話である。だから同大学のサンスクリット学科では集会や行事はすべてサンスクリット
語で挙行されるという。ヨーロッパで公式行事の時、例えばイギリス議会の開会式でエリ
ザベス女王がラテン語で一席語るというよりも更に一歩実用性は深いというべきである。
この文章はインド文学を語るがテーマだから、ここで昨年亡くなった「地中海」代表の香
川進の歌集『印度の門』に収録の歌に触れる。
*革命は観念ならねばまだかれら貧し軒ばを蛍飛びゆく
*乾糞(ふん)の火があぐるけむりを透過して月萌ゆ氷の冷たさもちて
*しかばねは物質、川にうち沈むる時いたるべく祭らるるしじま
*この国に乞食なき日の必ず来ん聖ガンジーも死にて久しき
などである。彼は旅行者ではなく商社の駐在員であつたが、一首目三首目などは実景をと
らえて心象に迫っている。四首目の歌は楽観的過ぎるしガンジー死後五十年を経ても事態
は基本的に変わっていない。
また「近代化」というのがどういう意味を持つのか。「発展」ということが良いのか悪い
のか、などインドの現実は様々のことを突き付ける。
私の歌の中に出てくる「ミトゥーナ」というのは直訳すると「性交する人」という意味で
ある。それは先に書いたようにヒンズー教に由来するが、そんな、すべてを飲み込んだ教義
と芸術作品と現実生活との、まさに「混沌」と表現すべきものがインドの現実であることを
実感させられるのである。そこにはキリスト教にいうような「原罪」というようなものは
存在しない。
書店や高級ホテルのショップでは英文のカラー刷りの『カーマ・スートラ』や、インド古
来の表現様式である「細密画」のうちで日本の浮世絵の「春画」にあたる画集の美しい本
が売られている。性風俗の表現についてもインドには「禁忌」(タブー)は存在しないよ
うだ。これらも東アジアの、特に漢文化の「儒教」思想に侵されていない、したたかな文
化の「雑草」性をかいま見させてくれる。 (完)


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