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「十六庚申堂」移転落慶

「庚申信仰」について

  @──十六庚申堂移転落慶─────木村草弥

私の住む京都府城陽市奈島十六(じゅうろく)の南西にあった「十六庚申堂」が国道307号線の歩道新設工事のために移転を余儀なくされ、すぐ近くの国道土堤下に改築されて、本日2004年3月30日落慶した。
本日付の別記の「庚申さんのこと」という文章に「庚申信仰」にまつわることは書いたので、それを見て頂けば判ることだが、この庚申信仰というものが、全国的に見た場合に、どのような広がりを持つものか、私には判らない。
はじめに、当地のことについて少し書いておく。

当地は木津川の畔にあり、明治になって鉄道が開通して物資輸送が、そちらに移るまでは、木津川による船便が大口荷物の輸送手段だった。
木津川は度々洪水を起こして氾濫したため、大正半ばから昭和10年代にかけて、当時の内務省が20年以上の歳月をかけて、背の高い新堤防を岸の外側に作る工事をやったので、村から木津川の水面を見ることは出来なくなったが、昔は木津川を行き来する帆掛け舟の帆が見えたという。
そんな船便の船着場が「奈島浜」と呼ばれて、十六の浜にあったのである。因みに、今でも私の住む「十六」という地名は「16」と誤記されたりして、よく間違われるが、正式の地名である。昔、ここに「丈六堂」というお堂があり、このお堂は歴史的にも資料に名前が載るところだが、その丈六がなまって「十六」という字(あざ)名になったと言われる。
木津川の廻船輸送については、京都府立山城郷土資料館に廻船免許鑑札などの資料が豊富に保存されている。上流は笠置から始まり、下流は淀あたりまでが木津川の廻船区域となる。それより下流の淀川の廻船は、もっと大型の船によることになり、当然、廻船の免許鑑札などは別個のものとなる。
因みに、私の方の祖先は木津川の廻船問屋を営んでいた。 「十六庚申堂」のことだが、いつ、誰によって建てられたか、などの詳細は何も判らず、資料として残っていない。
現在までに判っていることを、少し記録しておく。
昔は、十六庚申堂は青谷川の土堤下の森島衛宅の南側の藪際に鎮座していたらしい。
十六から土堤を上がってゆく細道は、森島宅の辺りから藪の真ん中を登って行ったものであり、その藪と細道の際にあったという。
その後、昭和51年10月に改築、移転され、つい最近まで国道307号線の脇に鎮座していたもの。
この時の工事には世話方として吉田由松、中島長太郎、十川辰三、十川一三の名前が見え、大工は有田恵一である。寄付者には82名の名前が残っている。

現在のご本尊である石碑には、真ん中に「青面金剛」の字が彫られ、その左側下に「長航京仙坊」の名前がある。長航京仙坊という名前からして、正式の僧侶ではなく、修験者(しゅげんじゃ)の名前が、ここに刻まれているものと考えられる。昔は十六は貧しい在所で、名のある人に揮毫や供養をお願い出来るような地位になかったのだろう。だから、無名の一介の修験者に石を刻んでもらったものと思われる。

もう一面の石碑は、露天に立っていたもので、風雨による風化がひどく、ようやく「南無阿弥陀仏」の文字が判読できる程度のもの。今回の改築にあたり、拓本の専門家に見てもらったらしいが、拓本するのも不能という状態。
「庚申」の日は60日で廻って来るので、十六庚申講は2軒か3軒が1組になって当番として庚申様をお祀りする。今は自治会員も数が増えて来て、他所からの入り込みも多いが、当番は土着の家が勤めることが多い。
庚申講の当番の箱と一緒に廻る庚申講の貯金通帳の、当初の発行日付は昭和7年7月6日となっている。それ以前のことは、資料が残っていなくて、判らない。今は信教も自由であり、こういう旧来の「しきたり」を面倒に思う人も増えたのは時代の推移として、仕方のないことである。

いずれにせよ、当地は朝鮮半島などからの渡来人が、早くから住み着いた所で、日本でも古くから文明の恩恵に浴した地域である。
上狛とか高麗とかの地名が現存するのが、何よりの証拠である。
その上に、当地は京都と奈良を結ぶ南北の奈良街道の中間地にあたり、また伊勢、近江から浪速に至る東西の道と交差する地点でもある。木津川には昔から(昭和30年代まで)橋はなく、十六の浜と、対岸の草内を結ぶ「渡船」が唯一の東西の交通手段だった。今でも先祖が「船頭さん」だったという家系が現存して、昔は平民は姓がなかったから、みな屋号で呼んでいたので、「船頭はん」と呼ばれている。

十六庚申堂の堂内に、いつ頃からか牛の置物が置かれるようになった。言い伝えによると、奈良街道が今の国道307号線に交差するように登る坂はかなり急勾配で、しかも十六の在所にさしかかる辺りで45度に曲がるので、牛の引く荷車が制動が利かずに車の下敷きになって死んだ牛がいたらしい。
この置物は、その死んだ牛の供養のために置かれたと考えられる。
牛は天神さん(菅原道真)の天満宮のお使いとして、狛犬代りに天満宮の社頭に寝そべっているが、庚申信仰には、本来的には牛は関係がない。
十六庚申堂の、先に述べたような特殊な事情で牛の置物が置かれているものと理解される。
古代の有史以前から明日香の藤原京から奈良朝時代、その後の平安時代を経て、千年を越える京都に都があった時期を通じて「畿内」の中心地として、この地は、あったと言える。
だから、古い文物も、たくさん現存するのである。
今回の庚申堂の改築も、そのような意味で、意義あるものであった。

終わりに、今回の移転改築は国道歩道設置のための移転ということで、移転保障費用の支出を得て実施されたが、この計画が発表されて以後、数年以前から移転改築のために役員の方のお世話があった。
役員の方々は、森島衛、藤本幸典、福岡良信、松井金三、山田覚治の5名の方々と歴代の自治会長の皆さんである。
京都府、城陽市との移転場所や保障費の折衝など、さまざまのご苦労があった。ここに名前を挙げ、感謝の意を表わしておきたい。
なお、十六生え抜きの古老の人に昔の庚申堂にまつわる話を聞くようになっているので、何か面白いエピソードがあれば、後日また追記したい。



  A──庚申(こうしん)さんのこと──木村草弥
──大陸渡来の「道教」と、我が国固有の神々や仏教が混交した《庚申信仰》という
  奇妙な習俗────

先ずはじめに十干(じっかん)(木、火、土、金、水の五行に兄弟(え・と)を配したもの) (甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと))は、十二の動物名である十二支と組み合わせて年月日、時、方角を表すのに使いますが、これ自体が道教の「陰陽五行」説に則ったものです。「庚申」とは、「かのえ・さる」のことであります。これが一回りしますと六十という数になり、年齢で言うと「還暦」ということになります。

庚申会、庚申待
庚申の日に寝ないで夜の明けるのを待つ行事。道教の説によると、この日、三尸(さんし)虫が人間の悪事を天帝に密告するのを恐れて、夜明かしをしてこれを祭る。仏教では帝釈天と青面金剛とを祭り、神道では猿田彦を祭る、と本に書いてあります。「庚申待」の風習は、中国から伝わって最初は宮廷貴族の間で始まり、次第に一般社会に広がった、と言われているが、この習俗を伝えた「道教」は中国の民族宗教で、朝鮮半島には早くから浸透しており、従って三韓からの渡来人と共に道教は日本に入って来た。道教は雑多な要素を含んでいるが、神学のほか、神仙説、陰陽五行説などを含み高度の学問であった。今はやりの阿倍晴明で有名な陰陽道は庚申信仰と深い関係があった、と言えるでしょう。
これらの習俗が、江戸期に入って一般民衆の間に「庚申待」として、大きく広がって信仰されるようになります。

青面金剛
これは仏像ではなく、難しい話になりますが、垂迹(すいじゃく)部に属する雑尊─道祖神、三宝荒神、牛頭天王、七福神などと一緒に分類される像で、何と「鬼病を流行させる神」で、それを逆手に取って、病魔悪鬼を追払うために修されます。その形像は青身で四臂の憤怒形。中世以降は道教思想も混交して庚申信仰の本尊として祭られるに至る。帝釈天の使者で、庚申の日に祭られる薬叉神とされる。仏の慈悲を表す柔和な面相とは全く別系統に属し、憤怒相の仏が悪鬼を威嚇し、教えに従わない衆生を教化するのに最適と、密教では特に重んじられました。

日本三庚申
庚申信仰を積極的に唱導し、その普及に一役も二役も買ったのが天台宗です。主な庚申堂はすべて天台派で、江戸時代に「日本三庚申」と言われた大阪の四天王寺庚申堂、京都の八坂庚申堂、江戸の入谷庚申堂(今はない。代わりに浅草寺の庚申堂が数えられる)。四天王寺庚申堂は山門に「本邦最初庚申堂」の表札をかかげ自称、日本最初の庚申堂である。京都八坂の庚申堂は正式名を大黒山金剛寺延命院と称する天台寺。堂宇には三猿を刻んだ石碑と、無数のくくり猿、その前にある香炉の脚も三猿像である。寺伝によると本尊の青面金剛は、太秦に広隆寺を建てた秦河勝が朝鮮半島から日本に渡来した時に将来(もたらした、の意)したもので、秦氏一族の守本尊だったが、秦氏滅亡の後、ここに祭られたのが千二百年前のことです。

申(さる)→去る=禍を去る、患いを去る、の語呂合せ
どうして、ここに「猿」が出てくるのか。この信仰の元になっているのは、極めて単純な語呂合せで、見出しに書いたような発想の連想から来ている。宇治田原の禅定寺の猿丸神社(猿田彦の系統)も同様の信仰で、「できもの」=腫れ物、悪性腫瘍など、現代病の多発に伴って多くの人々の信仰を集めるようになったと言えます。

猿田彦=境の神
古代神話によると、猿田彦と天鈿女(あめのうずめ)の夫婦の落着き先は伊勢の五十鈴川のほとりだったが、垂仁天皇の御代に、ここに伊勢神宮造営が決り、先住の神・猿田彦の末裔・大田命が土地を献上して立ち退いた。猿田彦は、今では道祖神、路傍の石仏、男根(陽物とも言う)を象どった石などに形を変えて見られる。双道祖神は猿田彦と天鈿女を祭る。
庚申堂、庚申塚は道祖神と共に、都や町、村のはずれを鎮める神、として「境の神」という性格を持つ。
十六の庚申堂も村のはずれにあること、を見てみれば、よく判るでしょう。

(参考文献)入門啓蒙書として『庚申信仰──庶民宗教の実像』飯田道夫(人文書院刊)

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