目次

※ 短歌作品
山城郷土資料館     木村草弥
(角川書店「短歌」平成13年5月号所載)

今つくる恭仁の都は山川の清けき見ればうべ知らすらし(大伴家持)

朝霧にしとど濡れつつ佇めば木津川の波は悲傷を流す

霧の空に太陽しろくうかびたり幻の騎馬に家持出でばや
                   出で=いで

山川の清けきところ恭仁の宮は三とせ経ずしてうち棄てられき
              清けき=さやけき 恭仁=くに

年々に花は咲けども恭仁京の大宮人は立ち去りにけり

恭仁京の発掘品の収蔵を急かされて竣る山城資料館
        急かされ=せかされ 竣る=なる

銭司といふ字名を今に伝ふるは「和同開珎」鋳造せしところ
                  銭司=ぜづ 字=あざ

ボランティアのわれは郷土資料館に来たりし百人余りを案内す
                      案内=あない

「古い暮らしの民具展」企画は小学校学習課程に合はせたり

小学校三年生が昔を学ぶと「くらしの道具」展示に群がる

三年生はやんちゃ盛り騒めきて引率の教師大声を挙ぐ
               騒めき=ざわめき

学研都市精北小学校の学童はバス三台にて百二十人

笠置町教育委員会のバス着きて降り立つ子らは十二人のみ

「へっつい」とは懐かしき竈かつて家々の厨にありしものを展示す
                         竈=かまど

竈神祀る慣ひも廃れたり大き写真のパネルを掲ぐ
          祀る=まつる 廃れ=すたれ




※ エッセイ
恭仁京と大伴家持     木村草弥
(「未来」誌2001年8月号所載)
連載特集・万葉集──この場所、この一首(8)

今つくる恭仁(くに)の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし
大伴家持(万葉集・巻六・1037)

私は昨年秋から恭仁京の発掘品の収蔵の必要から建設され、後に今の形となった京都府立山城郷土資料館でボランティアをする。
館の前庭脇に空外という地元の書家の筆跡による、漢字ばかりの原文の歌二首を刻んだ石碑が立っている。

娘子(おとめ)らが績麻(うみを)かくといふ鹿背(かせ)の山時しゆければ京師(みやこ)となりぬ
狛山(こまやま)に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず
田辺福麻呂(たのべのさきまろ)
(巻六・1056、1058)

この資料館の建つ場所は京都府相楽郡山城町上狛千両岩を地番としている。三重奈良県境の名張あたりを源流とする木津川が西流して来て平城京の資材の揚陸地であった木津にさしかかる一里ばかり手前の現在の加茂町に恭仁京は在った。引用した二首の歌を含めて出てくる地名だが、西流する木津川の南岸に「鹿背山」があり、北岸に相対する位置にある丘が「狛山」ということになる。現在も木津町鹿背山という地番は実在するが、山城町上狛という地番はあるけれども狛山という名の山はない。狛の辺りにある山──資料館のある丘がそれだろうと同定されるに至っている。二首目の歌は狛山を対岸に望んで南岸から詠われていることになるが、川幅が広かったことが偲ばれる。鹿背山は相楽郡木津町の東北部にあり海抜204メートルの低い丘。恭仁京の条里で言えば加茂町側の左京と、木津町側の右京とを隔てる自然物の景観でもあった。
因みに『和名抄』によれば山背(やましろ)の国とは乙訓(おとくに)・葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)・紀伊(き)・宇治・久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがらか)の諸郡を含み、今日の京都市南部以南の土地を指すことになる。恭仁京は、そのうちの相楽郡にある。
なお「山城」と書くようになるのは延暦13年(七九四年)の11月以後のことである。引用した歌に戻ろう。
この田辺福麻呂の歌は巻六の巻末にまとめて二十一首が載っているものである。福麻呂は橘諸兄(たちばなもろえ)に近い人で天平20年には諸兄の使者として越中に下り当時越中国守であった家持を訪ねることになる。
天平12年(七四0年)に九州で起された藤原広嗣の謀反は、聖武天皇をはじめ朝廷首脳部に衝撃を与えた大事件であった。
年表風に記すと─こんな風になる。
天平12年9月、藤原広嗣謀反。10月23日、広嗣逮捕。同29日、天皇関東に行くと告げて離京。大伴家持も供奉同行(巻六・1029の歌作る)。12月15日、恭仁京到着。翌13年閏3月、五位以上の官人の平城京居住を禁ずる。11月、天皇宮号を「大養徳恭仁大宮(おおやまとくにのおおみや)」と定める。14年8月、天皇紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸し、その後も行幸頻り。15年5月、橘諸兄従一位左大臣となる。8月16日、家持、恭仁京讃歌(掲出歌)を作る。12月、恭仁京造営を中止。天平16年閏正月11日、難波宮に行幸。同13日、直系皇子の安積親王急逝。2月、百官と庶民に首都の選択を計る。恭仁京から駅鈴や天皇印、高御座などを取り寄せる。翌17年5月、官人に首都の選択を計った結果、平城に決定。市人平城に大移動、天皇平城に帰京。
ざっと、こんな様子であった。
このように短年月(五年)の間に都の所在がめまぐるしく変わるという背景には、天皇を取り巻く権力中枢部での激しい争いがあるのだが、もともと恭仁京のある山背の国は葛城(かつらぎ)王=橘諸兄(聖武天皇妃の光明皇后の異父・兄妹であり、かつ、光明皇后の妹・多比能を妻とする)の班田の土地であり、遷都については諸兄の意向が強く働いたものと言われている。
掲出歌が8月16日に詠まれているが、その12月には、もはや造営が中止されるというあわただしさである。北山茂夫は『続日本紀』の記述を引いて「七四五年(天平17年)の危機」という把握をした上で、その年の四月以降雨が降らず、各地で地震が起こり、特に美濃では三日三晩揺れて被害甚大となり、天災は悪政によるという風説や放火が広がり、そういう状況を巧みに利用した民部卿藤原仲麻呂一派による、諸兄らの皇親派追い落としの策略を活写する。
年は明けて天平18年、家持はほぼ一年半の歌の記録の空白の後にふたたび筆を執った。そこには彼の喜悦が溢れる。巻十七の太上天皇(元正)の御在所での掃雪(ゆきはぎ)に供(つか)へ奉(まつ)りき、という(3926)の歌、

  大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

この席には橘諸兄、藤原仲麻呂の名も見える王臣あげての盛大な宴である。雪は豊作の吉兆として喜ばれていた。その白雪に託して寿歌を上皇に奏上したのである。
その年の3月に仲麻呂は式部卿になり、家持は内舎人から宮内少輔の地位についた。紙数にゆとりがないので橘諸兄については省略せざるを得ないが、私は第二歌集『嘉木』の中で「玉つ岡」の一連21首の歌に、その一端を詠んでおいた。
大伴家持は、その後も何度も権力騒動に巻き込まれ、中でも征東将軍として多賀城で死んだ後になっても藤原種継暗殺に荷担したとの冤罪で一切の私有財産を没収され古代の名門武門大伴一族が没落することになるのは後のことである。
私は北山茂夫の歴史家としての記述に多くの示唆を得て来た。新潮社が本につけた帯文は「日を追い、月を追い、熾烈に燃える藤原仲麻呂の野望。名門大伴の家名を双肩に負い、大歌集編纂の大志を胸に抱き、怒濤の時代を辛くもしのぐ家持の苦衷」。北山氏はこの『萬葉集とその世紀』の脱稿、推敲を果たした直後に昭和59年1月30日に急逝された。私事だが、妻が大学生で京都市左京区浄土寺真如町に下宿していた家の庭を隔てた向い家に北山先生がお住いで執筆に疲れたのか、よく二階から外を眺めておられた、という。昭和20年代の奇しき因縁である。

・参考文献
1)佐竹昭広・木下正俊・小島憲之共著『萬葉集本文篇』(塙書房平成10年刊)
2)校訂及び執筆者1)に同じ『日本の古典・萬葉集(二)』(小学館昭和59年刊)
3)北山茂夫『萬葉集とその世紀』上中下(新潮社昭和59・60年)
4)『京都府地名大辞典』上下(角川書店昭和57年)

・歌番号は1)による(国歌大観による、と注記あり)



※ エッセイ
補訂・山本空外先生のこと
(「未来」誌2001年11月号所載)

本誌八月号に掲載された「万葉集─この場所、この一首(8)」の私の文章「恭仁京と大伴家持」を書いたのは三月のことだ。
その中で万葉歌碑について「地元の書家・空外」の筆跡と言ったが、その後に知るところによると、この人・山本空外(本名・幹夫)先生は哲学者、浄土宗僧侶、書家として有名であることが判った。先生は、1902年生れ。東京大学文学部哲学科卒。1929年広島文理科大学助教授で欧米に留学。二年半のヨーロッパ留学中にフッサール、ハイデッガー、ヤスパース等西洋哲学権威と親交。1935年弱冠三十二歳にして東京大学で『哲学大系構成の二途──プロティノス解釈試論』により文学博士号を受ける。1936年から広島文理科大学教授を勤めるが原爆に遭い、その秋出家、僧籍に入り1953年京都府山城町法蓮寺住職となる。その間1966年定年まで広島大学教授。島根県加茂町隆法寺住職も兼任し同地に財団法人空外記念館を1989年に開設。この8月7日九九歳で遷化された。
私が「地元の書家」と書いたのは自坊の法蓮寺で亡くなられたことからも間違いではないが、上記のように補訂しておく。
空外先生は日本よりも外国で有名な人のようであり日本では世俗的な名誉は望まれなかった。記念館には国内外の国宝級の書画を所蔵するという。ここで先生の弟子である巨榧山人こと品川高文師の本『空外先生外伝』から面白いエピソードを一つ。
東京サミットの際の話。時の中曽根首相はレーガン大統領からの土産品の要望に「空外の作品を所望」とあったのに、誰に聞いても知る人がないので困惑していた。空外記念館のある関係から蔵相の竹下登が知っていることが偶然わかり、何とかツテを頼って空外先生の「歓喜光」の三字の書を揮毫してもらい面目を保ったという。品川師の本にはオッペンハイマーや湯川秀樹、小林秀雄、魯山人、柳宗悦などが畏敬して教えを受けたというエピソードが面白く物語られているが、それは、また後日。


TOP  目次
inserted by FC2 system