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スリランカ シーギリヤ・レディ 岩壁画

光り輝くインド洋のひとつぶの涙の雫──スリランカ
(2003年2月25日〜3月3日 新日本トラベル催行)

スリランカは、もう十数年も前に中国旅行で一緒だった草津の辻進一朗夫妻から勧められていた国だが、なかなか行く機会がなかった。この国は、もとセイロンと呼ばれていた、イギリスの植民地だが、セイロン紅茶の産地として私の仕事のからみからも、一度ぜひ行ってみたい国であった。
第4歌集を編集する過程で、題名を「嬬恋」とすることに決めたが、そのカバー表紙に、何を使うかで色々考えた結果、スリランカのシーギリヤ・レディの岩壁画を、と決めて旅の支度に取り掛かったが、二人から催行の新日本トラベルのツアーがなかなか成立しなかった。ところが急に六人の人が行くということで、私が加わって出発した。
以下の文章は、行程を辿ることは、しない。アトランダムに記述する。

トラブル
同行者は大阪の八尾あたりの読書会の女の人6人の熟年のグループである。
関西空港発、台北経由の香港行のキャセイパシフィック航空で出発。
トランジットの台北空港に着陸。私は機内に残って、清掃の様子や日本人スチュワーデスと話したりして時間を過ごしたが、離陸時間になっても一向に出ない。機内アナウンスで先の着陸の際にブレーキを故障したとかで、ごたごたした後に結局、前途はキャンセルということになり、全員荷物を持って待合室に出る。しかし、代替便を交渉するにしても、カウンターの辺りは人々が我がちに殺到して手がつけられない。おまけに日本語の話せるスタッフが捕まらない。女グループの人も英語で交渉できる語学力の人は居ず、結局、私が代表して交渉するはめになった。台北発香港行の便には、すでに予約客がおり、三便あるうちの、どれかに割り込まなければならない。ようやく二便目の列に並んでいると、キャセイパシフィックの日本語の話せるスタッフが来て、航空券などを渡す。
しかし、同日スリランカのコロンボ着の前途の旅程は無理で、何とかスリランカ現地の旅行社に連絡を取らないと、気をもむ。
ようやく香港についてキャセイの担当者も迎えてくれたが、スリランカへの連絡は「三分間の無料電話を提供するから、我々でやってくれ」という。この時、私が機内に残って話していた日本人乗務員が通りかかったので「このトラブルはキャセイの責任だから、そちらでスリランカに、すぐに連絡する義務がある」と言ってくれ、と主張し、キャセイも了承する。
同日はキャセイ(CX)の費用負担で空港内のREGAL AIRPORT HOTEL に宿泊。新空港なので出来たての綺麗なホテル。スーツケースも深夜に到着。
翌日の朝食もCXの手配。香港─コロンボ間は週2便しかないので、一旦シンガポールに出て、トランスファーしてスリランカ航空(UL)でコロンボへ夕方に着く。一日遅れとなるので、一日分の日程が削除となる。どこを削るか、ということになると、熟年女のあつかましさで、彼女らに交渉はまかせる。結局、ヌワラエリヤの紅茶のプランテーションの部分を削除することになる。

現地ガイドはVIPUL君
このヴィプールというのはスリランカ語で「人気がある」意味だと言う。日本には行ったこともなく、現地で日本語を覚えたというが、立派なものだ。
空港の、すぐ近くの広い庭園のあるリゾート風のタージ・エアポート・ガーデンホテルに宿泊する。生あたたかい空気。

スリランカ=光輝く島
現地語で、スリ=光輝く、ランカ=島、の意味。総面積は北海道の八割くらいの大きさ。
最高峰はピドゥルタラガーラ山で2524メートルの海抜。良質の紅茶を産するヌワラエリヤは高地で気温は最高でも20度前後という。イギリス植民地以来の避暑地。熱帯モンスーン気候に属する。

シンハラ人とタミル人
人口の七割を占めるのが、インド北部のアーリア系を先祖とするシンハラ人。あと二割を占めるのがインド南部から来たタミル人。シンハラ人は仏教徒で、タミル人はヒンズー教徒。あと7%の人口がムーア人と呼ばれるイスラム教徒である。
ご承知のようにスリランカ北部を根拠とするタミル人過激派「解放の虎」が血なまぐさいテロを頻発し、それとの対応が最近の緊要な課題となっていた。スエーデン政府の仲介で、彼らが丁度一年前に一方的な停戦を発表し、ここ一年テロは止んでいた。私が行った時は、丁度一年経って、その休戦を祝う旗が立っていてお祝いをしていた。
スリランカ復興支援会議という(座長・明石康氏)のがあり、2003年6月9、10日に日本で30数カ国が参加して交渉がおこなわれたが、タミル人武装組織は、タミル人地域の自治権付与や環境整備が進んでいない、との理由でボイコット。スリランカ政府は、対立点は少ないと対話を更に押し進める方針という。各国で45億ドル支援の約束という。
タミル人のうち、茶園労働に従事するものはイギリスが労働力としてインドから連れて来たもの。
イスラム教徒は自動車販売などの商業に携わり、経済力を持っている。国道沿線に店を構える車ディーラーは皆イスラム教徒で、日本のメーカーの代理店を営む、という。
シンハラ人とタミル人の対立は、イギリスの植民地政策のなごりの面もあるが、歴史的には有史以来つづいているという学者の説もある。

亜大陸インドの南ひとつぶの涙を零ししやうなり、スリランカ

スリランカ「光輝く島」と言ひ誇りも高く彼ら口にす

─六世紀編纂の本『マハーワンサ』王権神話─
シンハラ人に言ひ伝へあり「ライオンを殺した者」とふ建国神話
                   ライオンを殺した者=シンハラ

西風に乗りて来たりしマルコ・ポーロ「世界で一番すばらしき国」と

タミル人「解放の虎」テロ止めて一年たつと言ひ祝賀の旗たつ

二○○三年春日本にて停戦の会議あると聞くうれしきことなり

─BC十世紀の神話─
ソロモン王がシバ女王に贈りたる大きルビーはスリランカ産てふ

野生象三千頭ゐる密林の径にうづ高し象のうんちは

「アーユ・ボーワァン」便利な言葉こんにちは、有難う、さようならにも

長寿が延びますやうにの意なるとガイド氏言へり、合掌して言ふ
          長寿=アーユ  延び=ボー  ますやうに=ワァン

ガイドなるヴィプール君言ふVIPULは「人気がある」意とほほゑみにけり

我らまた彼らにならひ何事にも合掌して言ふアーユ・ボー・ワァン

まとはりつく物売りの子に合掌しアーユ・ボー・ワァン言うへば渋き顔せり

この場合「かんべんしてね」の意味ならむしつこき売り子のたじろぎたるは

紅茶とタミル人労働者
産地だけあってスリランカでは紅茶を、よく飲む。普通は砂糖をたっぷりと入れて飲む。茶園で働くタミル人は、先に書いたようにイギリス支配の時に南インドのタミル・ナードゥなどから連れて来られた人々の末裔で、色は黒く容貌も精悍な人種である。
スリランカには、歴史的に古くから移住し定住して来た「スリランカ・タミル」と呼ばれる人々が主に北部、東部に集中し、また都市部でも生活して商人や農民として富裕な生活をしているが、イギリスが連れて来た19世紀以後の移民の末裔は「インド・タミル」と呼ばれ、貧困の極にあり、民族問題が表面化した時には、しばしば不穏な動きを見せると言われ、これがタミル人過激派組織「解放の虎」の基盤となっているのであろうか。
紅茶の品質については紅茶プランテーション訪問の個所で述べたい。

スリランカの食事
スリランカの食事の基本は「カリー」日本でいうカレーだが、インドと同じようにサラサラした汁で、あらゆるものに味付けとして、さまざまに使われる。大皿、小皿に盛られたご飯やおかずを、指先でつまんでご飯に混ぜて食べる。じかに指先で食べるのが正式で、外国人である我々も、そうして食べると喜ばれる。植物性のおかずが多い。ご飯の他に、米から作った麺や、ホッパーというクレープの皮のような(ナンのような)ものにおかずを包んで食べる。馴れると結構おいしいものである。

コロンボとキャンディ
コロンボは厳密に言うと首都ではない。首都はコロンボ郊外のスリー・ジャヤワルダナプラ(通称・コーッテ)で、国会議事堂の建物などが野原のまん中に建っている。
町の名は、スリー=光り輝く、ジャヤワルダナプラ=元大統領名に因む。また「コーッテ」は15世紀のコーッテ王国の名に因む。
コロンボは高層の建物も建つ近代都市で1985年までは首都でもあった。
キャンディは島の中央部の山の中にある気候の良い「古都」で有名な仏歯寺がある。
ポロンナルワやアヌラータブラなど島の北部に栄えたシンハラ王朝がインドからの侵略に押されて、最後に都を構えて、イギリスに滅ぼされるまで300年間つづいたのが、このキャンディである。


プルメリアの花(五彩あり)

─キャンディ湖畔の仏歯寺あつき信仰を集める─
レイに良し仏花にも良し五彩あるプルメリアの花季とはず咲く
                          季=とき

夕まけて涼風たつる頃ほひに灯を点して仏歯寺混みあふ

─キャンディ郊外ペラデニヤ植物園、14世紀の王バーフ三世が娘のために創立─
TVのこの木なんの木気になる木モデルの大樹フィーカス・ベンジャミナ

長寿番組「世界不思議発見」のテーマ曲に映す傘状の大樹

樹の下に入れば太き枝いり組みて八方に伸ぶる壮んなるかな

熱帯にも季節あるにか花多き季は十二月から四月と言ひぬ

植物の相にも盛衰あるらむか絶滅危惧種の双子椰子とふ
                          相=ファウナ

(ペラデニヤ植物園の写真は配置の都合上、このページの終わりのところにあり)

アヌラーダプラ
夕陽のなかに巨大なダーガハ(仏塔)がシルエットとなり、やがて、墨を流したような深い夜の闇の中に消えてゆく。
アヌラーダプラ──ここは2500年も前にスリランカ最古の都のあったところ。その文明を象徴するかのように、町のあちこちに点在するダーガハは、天に壮大な姿で聳え立ち、そこに彫られる像は、どれも柔和な表情を浮かべている。
インドから来た仏教は、この地からスリランカ全土へ、そしてミャンマー、タイ、カンボジアへと広がっていった。この地に栄えた王朝は高度な文明を持っていて、今なお人々に利用される貯水池その他の灌漑施設や上下水道も、その当時に造られたものだ。
おおよそ、スリランカ観光は、先ずこの地からはじまると言われている。もちろん我々もそれに従った。

 
イスルムニヤ精舎 寝釈迦  イスルムニヤ精舎 恋人の像

イスルムニヤ精舎
ティサ池のほとりに造られた通称「ロック・テンプル」がイスルムニヤ精舎である。もとは紀元前3世紀の僧院がはじめだが、今の本堂は新しく再建されたもの。浅草寺の援助によるという。本堂脇の宝物殿には有名な「恋人の像」というのがある。これはサーリヤ王子と、カーストの低い女マーラとの恋を刻んだもの。(歌集『嬬恋』の扉に使用した)
この町での見ものは、ルワンウェリ・サーヤ大塔の見事な象のレリーフ。トゥーパーラーマ・ダーガハは紀元前4世紀に仏陀の右鎖骨を祀るために建てられたもの。ムーンストーンに輪廻の思想を見るというクイーズ・パビリオン。アバヤギリ大塔など。
ここでの宿泊は、もと椰子の木のプランテーションだったというパームガーデン・ヴィレッジ・ホテル。

─紀元前5世紀、最初の古都アヌラーダプラ─
ティサ池に影を映せる大岩をえぐりてなせる御堂と仏塔
                    仏塔=ガーダハ

金色の涅槃仏据ゑし本堂は浅草寺の援けに彩色せしてふ
                    金色=こんじき

恋ほしもよサーリヤ王子と俗女マーラ刻める石は「恋人の像」

もと椰子のプランテーションたりしゆゑPalm Garden Village Hotelと名づく

客室はコテージふうに疎らなる林の中に配されてゐつ

ひろらなる湖につらなる庭にして野生の象も姿見すとふ
                       湖=うみ

ミヒンタレー
アヌラーダプラの近くにミヒンタレーがある。ここはスリランカに最初に仏教が伝来したという聖地。アムバスタレー大塔がある。僧院からプルメリアの花に囲まれながら、石段を615段登ると向かい側にマハー・サーヤ大塔が白く聳えたつ。ここでは、はだしで焼けつく石の上を登ったので苦痛。

─ミヒンタレー─
プルメリアの花咲く石階六百段はだしにて登るアムバスタレー大塔

陽にやけし岩のおもてが足裏に熱き苦行の岩山のぼる

向ひあふ丘の頂に真白なるマハー・サーヤ大塔の見ゆ

ポロンナルワ。文化三角地帯
スリランカ中央部、アヌラーダプラ、ポロンナルワ、キャンディの三都市を結ぶ三角形の内側を文化三角地帯と称する。
ポロンナルワでは、先ずポロンナルワ博物館を見学して、宮殿跡、マーラ王子の沐浴場跡クォードラングル、トゥーパーラーマ、ワタダーギア、ハタダーギア、キリヴィハーラ、ガルメヴィハーラなどを巡る。
ガルヴィハーラには涅槃像、坐像、立像の三体の仏像がある。いずれも巨大である。

 
見学の中学生  見事なガード・ストーン

─ポロンナルワ─
ワタダーギヤ、ハタダーギヤとて大小の仏塔あつまるクォード・ラングル

─十世紀から十二世紀にシンハラ王朝の首都ポロンナルワは巨大な人工池のほとり─
乾きたる此の地に水を湛へしは歴代の王の治世ぞ池は

見学の中学生多し観光客に英語で質問せよとの課題

─ガル・ヴィハーラ─
涅槃像、立像、坐像巨いなる石の縞見すガル・ヴィハーラは

立像は一番弟子なるアーナンダ涅槃に入りし仏陀を悲しむ

なだらかなる姿態よこたへ仏陀はも今し涅槃の境に至るか

足裏と頭ささふる枕にみる渦巻模様は太陽のシンボル


ガル・ヴィハーラ 寝釈迦

シーギリヤ
ポロンナルワの西の密林の中に、忽然と巨大な岩山が出現する。シーギリヤ・ロックだ。イギリス統治下の1875年双眼鏡でイギリス人が突然発見したという。
この岩は古代から仏教僧たちの修験場であった。5世紀の後半、広大な貯水池を建設したダートゥセーナ王の長男カーシャパには、腹違いの弟モッガラーナがいた。弟の母親は王族の血筋の女性であり、カーシャパの母親は平民の血筋で、カーシャパは弟に王位を奪われるのを恐れ、父王を殺し、弟の復讐を恐れて岩山の頂に宮殿を建てて籠もった。
弟の軍隊に攻められ、カーシャパは僅か11年間の治世であった。弟のモッガラーナ王はシーギリヤの王宮を仏教僧に寄進し、王都をアヌラーダプラに戻したという。
美女のフレスコ画は昔はたくさんあったらしいが、剥落したり、戦争で剥がされたりして今は18が見られるに過ぎない。石段をいくつも登り、最後の取り付きは、鉄製の垂直の螺旋階段を登る。降りてくる人があれば、途中で進路を譲るなどして、登り切った、すぐ目の前に、その岩壁画はある。
番人がいて、カメラを構えると、チップをせしめようと日光を遮断するために前に垂らしたシートを持ち上げてくれるが、それが却ってハレーションを起して写真の質には、よくない。私は、すっと身を引いてチップをやらなかったが、後に残った同行者は、うるさくチップを要求されて閉口したという。
私の兄・木村重信の『世界美術史』(1997年朝日新聞社刊)にも、この岩壁画は出ている。私は第4歌集『嬬恋』のカバーに、この画の一つを使ったが、色調の関係から兄の採用した画とは別のものを使った。嬬恋という歌集名に合う絵を、と思ってである。
結果的に私の狙いは成功したと言える。読者の評判も一様に絵の選択を褒めてくれる。
あと、岩山を横に巻くようにして登ると「ライオンのテラス」というに出る。今はライオンの爪の部分しか残っていないが、造られた頃は、ライオンの体内を通って、岩山の上の王宮のあった場所に出た、という。私はテラスから引き返して、頂上へは行かなかった。


シーギリヤ・ロック遠望

─シーギリヤ─岩壁のフレスコ画は5世紀のもの─
忽然とシーギリヤ・ロック巨いなる姿あらはしぬ密林の上に

いづこにも巨岩おそれ崇むるぞシーギリヤまた地上百八十メートル

父殺しのカーシャパ王とて哀れなる物語ありシーギリヤ・ロック

─鉄製ラセン階段は1938年にイギリス人が架けた─
汗あえて息せき昇る螺旋階ふいに現はるシーギリヤ美女十八

草木染めに描ける美女は花もちて豊けき乳房みせてみづみづし
                         美女=アプサラ

ターマイトン土で塗りたる岩面に顔料彩なり千五百年経てなほ
                            彩=あや

貴なるは裸に侍女は衣つけて岩の肌に凛とゐたりき
      貴=あて   衣=きぬ   肌=はだへ

─1967年バンダル人が侵攻し多くのフレスコ画を剥がす─
昔日は五百を越ゆるフレスコ画の美女ありしとふ殆ど剥落


シーギリヤ・レディ いくつか

シーギリヤの名前の由来
ライオンはシンハ、喉はギリヤ。シンハギリヤ→シーギリヤ。岩の頂上へは「ライオンの爪」の入口を登ってゆくが、以前は胴体、頭部があって、階段を登ってゆくと、ライオンの喉に飲み込まれるような感じだったのではないか。それが「ライオンの喉」=シーギリヤの名前の由来という。

ライオンの喉を上りて巨岩の頂に王の玉座ありけむ
         ライオン=シンハ   喉=ギリヤ

シンハ・ギリヤいつしかつづまりシーギリヤ仏僧に寄進されし稀なる王宮

聞こゆるは風の音のみ潰えたる王権も哀しカーシャパ王の野望

シーギリヤ・ヴィレッジ・ホテル
ここでの宿泊は、ロックを降りた、すぐ近くのシーギリヤ・ヴィレッジ・ホテル。ここも広い敷地の中にコテージふうに部屋が配置され、入口のドアが上下に二分割になっているのが珍しい。床はタイル張りである。樹木の中なのでシーギリヤ・ロックは見えないが、隣のホテル・シーギリアというのはプールサイドから見えるとガイドブックに書いてある。


ダンブッラ石窟寺院

ダンブッラ
ここにはスリランカ最大の石窟寺院がある。自然にあった巨大な岩山に彫られたもので、第一窟から第五窟まである。この番号順に古い。
この寺は紀元前1世紀にワラガムバーフ王によって造られたのが最初。王は首都アヌラーダプラがタミル軍に侵略されたので、ここに難を避け奪回の機会を狙い、それに成功して感謝の気持をこめて、この寺を建立したという。
第一窟はデーワ・ラージャ・ヴィハーラと言い、「神々の王の寺 」の意味。壁と同じ自然石に彫り出された14メートルの涅槃仏が横たわる。全身は黄金色に染められているが足の裏だけは真っ赤で花火のような花模様が描かれている。
第二窟はマハー・ラージャ・ヴィハーラと言い「偉大な王の寺」の意味。この偉大な王とは寺の創始者ドゥッタガーマニーのこと。洞内には56体もの仏像が並んでいるが、ここの見ものは壁や天井一面に描かれた壁画。仏陀の生涯のほかスリランカの歴史が所狭しと描かれている。
第三窟はマハー・アルト・ヴィハーラと言い「偉大な新しい寺」の意味。18世紀に造られた全長9メートルの寝仏や57体の仏像がある。
第五窟は1915年に造られた最も新しいもの。

─ダンブッラ─
五つある石窟寺院は歴代の王が競ひて作り継ぎてし

はじまりはワラガムバーフ王がタミル軍を破りて建てしよBC1世紀

ダンブッラ寺の由来は「水の湧き出づる岩」とふ意味に因める

第二窟マハー・ラージャ・ヴィハーラとは偉大なる王の意、仏像五十六体

キャンデイ
古都という言葉の響きには、旅人の心をくすぐるような魅力がある。日本人にとって京都がそうであるように、スリランカ人にはキャンデイが、そんな古都にあたる。
キャンデイは標高304メートルの山の中の盆地である。ここに都が置かれた由来については、先に、コロンボとキャンディの項で書いた。
キャンディ湖という人工湖の周囲に仏歯寺などがある。この湖は19世紀のはじめに王朝最後の王スリー・ウィクラマ・ラジャシンハによって流れ込む川をせきとめて、12年をかけて造られたもの。当時、湖の中の島は王室のハーレムがあったという。
湖の周りは、結構傾斜の急な山で、レイクヴュー・ポイントという見晴らし台もある。


仏歯寺 内部

仏歯寺
金ピカに飾りたてられた仏歯寺は、昼間の暑さを避けて夕方から参詣者で込み合う。
寺院内の厨子に納められる仏歯は、紀元前543年インドで仏陀を火葬にした時に手に入れたもの。その後4世紀にインドのオリッサ州カリンガの王子が、頭髪の中に隠してスリランカに持ち込みアヌラーダプラにに祀ったが、都が遷るたびに移され、最後にキャンディに安置されるという。
ここでは入口で裸足になり中に入るが、すごい人出。一番奥の内陣の仏歯の部屋は、一日3回のプラジャーの時だけで押すな押すなであり、花(プルメリア)を買って捧げる。私たちの行った時間帯が、まさにその時間だったのかも知れない。
キャンディでの宿泊は、古い歴史のあるホテル・スイスだったが、丁度二階のレストランではイスラム教徒の盛大な結婚式が行われていて、三階のテラスから、その様子が見られたが、先に書いたようにイスラム教徒は経済力を持っており、立派な式であった。


水浴びする象

象の孤児院
キャンディの西30キロにキャーガッラという町があり、密林で親とはぐれた子象などが50頭あまり保護されている。なかには成獣もおり、この施設の中で雌雄が交尾して子象が生れたケースもあるという。この維持費用は寄付や入場料でまかなわれるという。
午前と午後に近くの川で飼育員に連れられて水浴びをする。町の通りを通って象が川に行く様子は壮観である。

紅茶工場、ドリアンなど。一路コロンボへ
最初の予定は高地のヌワラエリヤの紅茶プランテーションを見学する予定だつたが、日程の短縮で省略され、キャンディからコロンボへの移動途中の低地の紅茶工場ゲラガマ・ティー・エステートという所に立ち寄った。茶園の規模も小さく、ここで飲んだ紅茶も旨くはなかった。萎凋、酸化(以前は醗酵と称したが)、揉撚、篩い分けなど古い機械を使って人海作業で仕事をしていた。
そこを出て国道沿いの露店で誰かがドリアンを買ってふるまってくれた。まだ新鮮で、鼻をつくような臭気は気にならなかった。おいしいものだ。シンガポールで食べた時には閉口したものだが。
後は一路、コロンボへ。

 
この木なんの木の前で  この木なんの木の内部

コロンボでは、バスの中から町並をみたり、ガンガーラーメヤ寺院やヒンズー寺院に寄ったりする。あと、インド洋に面したゴール・フェイス・グリーンという海岸で時間を過ごす。多くのコロンボ市民や観光客が出店で食い物を買ったりしながら群れている。インド洋からの風に凧を揚げている人もいる。自由時間なので、コロニアルな雰囲気に浸ろうとゴール・フェイス・ホテルのテラスで紅茶を飲む。米ドルで1ドルだが、ポットで持ってきてくれ、カップに五杯ほどもあった。あと日本料理店「もしもし」で日本食の定食のようなものを食べて帰国のため空港へ。コロンボには宿泊もしないし、見学するところも少なく残念である。

ジャヤワルダナ全権大使のこと
1951年9月サンフランシスコ対日講和会議の時、セイロン全権大使ジャヤワルダナ(後の大統領)は、ソ連の対日賠償の過大な要求を盛り込んだ修正条項に反対して、仏陀の言葉を引いて、参加国に寛容の精神を説いた、という。日本は、この恩義に報いるため、スリランカには多額の借款や援助の手を差し伸べている。
先に書いたが、現在の首都の名は、この人の名を採っているものである。

「憎しみは憎しみにより止むことなく、愛により止む」ブッダの言葉
─(Hatred ceases not by hatred , but by love )─
─ゴール・フェイス・グリーン─

インド洋より吹きくる風も心地よし凧あげする人あまた群れゐつ

先のアップ以後に、下記のような新聞記事が載った。私の書いた文章を補足するのに丁度いいので、以下に転載する。スリランカ政府のタミル武装勢力への対応にムラが見られる意味が見て取れる、と思うからである。

「スリランカ2大名家の対立」 (読売新聞2003年11月9日掲載)
クマラトゥンガ大統領による主要閣僚3人の更迭を発端とした同国の政治危機は、大統領とウィクラマシンハ首相との個人的確執が底流にある。大統領が首相の外遊中に敢行した、国会停止や非常事態宣言布告など一連の措置には、「首相への憎悪がある」(政府筋)とされ、今回の危機には、スリランカ政界を二分する名家の歴史的対立という側面も持つ。

しっと?
危機を解くカギは、クマラトゥンガ大統領の7日のテレビ演説。ここで大統領は「ノルウェーをスリランカ和平仲介に呼び込んだのは私(の功績)だ。だれか一人だけが和平を進めたのではない」と述べた。スリランカ政府は、昨年2月に少数民族タミル人の過激派組織「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)との停戦合意に調印した。ウィクラマシンハ首相は国際的に「和平推進の旗手」と評判をあげていただけに、スリランカ政府幹部は大統領の発言を、「首相に手柄を独占されたと感じたためだ」と指摘する。
大統領には、ゲリラ側が武装闘争路線を放棄したのは、自らがゲリラ掃討作戦で追い詰めたからだという自負がある。同時に、99年の大統領選の最中に爆弾テロに襲われ片方の目を失ったため、LTTEに対する不信感は極めて強固だ。
それゆえ大統領は、首相がLTTEとの和平交渉を維持したい一心から過度に宥和的な態度を取っている、として「腰抜け」と非難。対する首相も大統領を、強権的な態度を取りたがる「ヒトラー」と呼んではばからない。

似た出自
お互いを蔭で口汚く罵倒するほどの不仲である二人の出自は、非常に似通っている。大統領一族のバンダラナイケ家と、首相のジャヤワルデネ家とは、スリランカ政界を二分する名家。世界初の女性首相であるシリマボ・バンダラナイケ首相はクラマトゥンガ大統領の実母。また一方、78年に就任したジャヤワルデネ初代大統領は、ウィクラマシンハ首相の母のいとこにあたる。
しかも、大統領一族はスリランカ自由党(SLFP) 、首相一族は統一国民党(UNP) を率い、政権獲得による「王朝支配」に向け、長らくしのぎを削ってきた。両家とも元々はキリスト教を信奉していたのに、国民の八割近くを占める仏教徒の支持拡大を狙い、家族ぐるみで仏教に改宗したことでも有名だ。
それだけに今回の政変劇は、政権運営上の対立に名を借りた感情的衝突の側面は否定できず、それが理性的判断による事態収拾を一層困難にしていると言えそうだ。

クラマトゥンガ大統領の家系
父 ソロモン・バンダラナイケ
  (首相1956〜59暗殺)
  (1899〜1959)
母 シリマボ・バンダラナイケ
  (首相1960〜65・70〜77・94〜2000)
  (1916〜2000)
二女 チャンドリカ・クマラトゥンガ
    (大統領1994〜)
    (1945〜)
夫 ビシャヤ・クラマトゥンガ
  (人権活動家、1988暗殺)

ウィクラマシンハ首相の家系
ジューニアス・ジャヤワルデネ ラニル・ウィクラマシンハ
  (大統領1978〜89)  母のいとこ
  (1906〜96)
  (首相1993〜94・2001〜)
  (1949〜)

                           (執筆者・黒瀬悦成・コロンボ発)

(完)

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