目次



木村草弥第四歌集『嬬恋』
(2003年7月31日 角川書店刊)
自選六十首

T かがなべて

掃くは惜し掃かぬは憂しと緋椿の散り敷く径に思案をすべし
                          径=みち

唐国の壺を愛して梅を挿す妻の愁眉や未だ寒き日

二十世紀デザイン切手の『蟹工船』時代を透かせば心が痛む

目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を

紅梅を見つつ独りの酒に酔ふけふは姉の忌と思ふたまゆら

一二輪まことに紅濃き梅の花さびしきかなや若き死者のこゑ

うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり

石ひとつ投げし谺がかへりくる花の奈落の中に坐れば

真実とはいかなる象なすものか檀のまろき実くれなゐ深く
                象=かたち  檀=まゆみ

ドーパミンなだめかねつる此の宵を蛞蝓の辿れる白き這ひあと
                          蛞蝓=なめくじ

食むといふ営為はかなし今たべし蜜柑の香りををとめはまとふ


U をちこちの

「エッサイの樹から花咲き期くれば旗印とならむ」とイザヤ言ひけり
                                 期=とき

「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ

ヌーリスタンそは光の国「我らこそアレキサンダーの裔」と微笑む
                             裔=すゑ

地の上のむごたらしき死も知るなくて清らなる水の流るる地下水脈
                          地下水脈=カレーズ

シプカ村に鄙びし聖歌ひびくときバルカン山脈晴れて果てなし

はるばるとユーラシアより来しマヤ人も蒙古斑持つと知れば親しも

戻り来しいのち虔しみ菖蒲田を妻と歩めば潦照る
        虔しみ=つつしみ  潦=にはたづみ

山城園済南支店ありし街われは泉の水を掬ひつ
                   掬ひ=すくひ

黄土あらは即ち黄河断流を目のあたりに見てこころ干からぶ

夕陽赫く驢馬も老婆もをののきて見つめてゐたる乱世ありぬ

美貌なる修道女にてイコン売る黒き衣にうつしみ包みて

驢馬の背に横坐りしてゆく老婦大き乳房の山羊を牽きつつ

クレタ人ゑがける海豚つぶらなる目をしてゐたり四千年経て
                         海豚=いるか


V かむときの

恒河に死を待つ人が石階に喜捨を待つなり乞食と紛ひ
                     恒河=ガンガー

当麻道すかんぽを抜き噛みながら童女の眸も春風のなか
                         眸=まみ

こめかみのわびしき日なり毀誉褒貶かしましき日の暮れなむとする

古唐津で茶を飲むときにうら悲し妻が横向き涙を拭きぬ

億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし

逢ひたいと書けば滴り落ちる青饒舌な暗喩の過去形だつた

一つ得て二つ失ふわが脳聞き耳たてても零すばかりぞ
                         脳=なづき


W ダビデの星

脆すぎるものゆゑ人は戦ひぬ律法もつモーゼ、剣もつエリヤ

行く末を誰にか問はむ生れ来たる苦しみの子はた幸ひの子
        苦しみの子=ベン・オニ  幸ひの子=ベン・ヤミン

主イエス、をとめマリアから生れしと生誕の地に銀の星形を嵌む

断念を繰り返しつつ生きゐるか左に死海、右にユダの沙

忘れねば生きてはゆけぬ記憶あれ葡萄酒の樽の大き木の栓

終末に向き合ふものの愛しさかハル・メギドの野は花に満ちたり
                           愛しさ=かなしさ

あたらしき千年紀に継ぐ風景は? パソコンカフェのメールひそかに

ほの赭きエルサレム・ストーン幾千年の喪ひし時が凝りてゐたる

「信じられるのは銃の引金だけ」そんな言葉を信じるな! 君よ

神ヤハウェは呟くごとく唱ふべし小刻みに体ゆすりつつ嘆きの壁に向く

絹布もてイエスの顔を拭ひしヴェロニカその名を愛でて今も命名多し

<国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球はアポリア

夕暮は軋む言葉を伴ひて海沿ひに来るパレスチナまで

目覚むるは絆あるいはパラドックス風哭きて神をほろほろこぼす

何と明るい祈りのあとの雨の彩、千年後ま昼の樹下に目覚めむ
                              彩=いろ


X めぐり逢ひて

転がれる白桃思慕をあらはにす唇うばはれ易き薄明

享けつぎて濃く蘇るモンゴル系ゐさらひの辺に青くとどめて

無防備にまどろむ君よスカラベがをみなの肌にとどまる真昼

少年は樹液饐えたる甘き香をにほはせ過ぎぬ露けき朝を

春くれば田んぼの水に蝌蚪の語尾活用を君は見るだらう
                    蝌蚪=おたまじやくし

「交配中」のビラを掲げてマルハナバチがトマトの黄花の花粉にもぐる

みづがめ座われのうちらに魚がゐてしらしらと夏の夜を泳げり
                           魚=いを

呼ばれしと思ひ振り向くたまゆらをはたと土偶の眼窩に遇ひぬ

父を詠みし歌が少なし秋われは案山子のやうに立ちてゐたりき
                          案山子=かかし

これを聴くと勇気が出ると「フィンランディア」を聴いて妻は手術へ

生き死にの病を超えて今あると妻言ひにけり、凭れてよいぞ

嬬恋を下りて行けば吾妻とふ村に遇ひたり いとしき名なり
              嬬恋=つまごひ   吾妻=あがつま

睦みたる昨夜のうつしみ思ひをりあかときの湯を浴めるたまゆら

水昏れて石蕗の黄も昏れゆけり誰よりもこの女のかたはら
                石蕗=つはぶき    女=ひと




*書評
書評──木村草弥歌集『嬬恋』
(角川書店・2900円)
「未来」誌2004年1月号 所載

    地球(テラ)はアポリア    秋山律子
『嬬恋』は木村草弥氏の第四歌集にあたる。その歌集名と響きあうようなスリランカの岩壁画という「シーギリア・レディ」のフレスコ画のカバーが印象的である。十数年来の念願が叶って実際に見に行かれたそうだが、かすかに剥落しながら浮かび上がっている豊潤な像に女性への、妻への思いが象徴されているのだろう。
『嬬恋』は群馬県北西端の村の名に因んでいるが、それは二度の大患を乗りこえて戻ってきた吾が妻へのそのままの気持ちであると記す。
  妻病めばわれも衰ふる心地して南天の朱を眩しみをりぬ
  羽化したやうにフレアースカートに着替へる妻 春風が柔い
  壺に挿す白梅の枝のにほふ夜西班牙(スペイン)語の辞書を娘に借りにゆく
  嬬恋を下りて行けば吾妻とふ村に遇ひたり いとしき名なり
  睦みたる昨夜(きぞ)のうつしみ思ひをりあかときの湯を浴めるたまゆら
という風に、妻や娘を詠むときに匂うような視線がある。そういった家族への濃い思いもこの歌集の特徴だが、一方でもう一つ大きなテーマとして、アジアや中東を旅し、その土地から発信する幾つかの連作に、旅行詠を越えた力作が並ぶ。その中の一つ「ダビデの星」というイスラエル、エルサレムを旅した時の散文を含んだ一連は、この歌集のもう一つの要であろう。
  今朝ふいに空の青さに気づきたりルストゥスの枝を頭(づ)に冠るとき
に始まる八十余首の連作は、イエスが十字架を背負って歩いたヴィア・ドロローサの歴史的場所の十四のポイント(ステーション)を辿るのも含めて、そのほとんどを叙事に徹しながら、自らの足を運び、自らの目で視ることの迫力で一首一首を刻んでゆく。
  主イエス、をとめマリアから生まれしと生誕の地に銀の星形を嵌む
  ほの赭きエルサレム・ストーン幾千年の喪ひし時が凝(こご)りてゐたる
  異教徒われ巡礼の身にあらざるもヴィア・ドロローサ(痛みの道)の埃に塗(まみ)る
  日本のシンドラー杉原千畝顕彰の記念樹いまだ若くて哀し
  「信じられるのは銃の引金だけ」そんな言葉を信じるな! 君よ
  <国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球(テラ)はアポリア
宗教、民族の紛争地のただ中を歩みながら事実のあるがままの呈示の中に、自分の思念を映し出す。そして連作の最後に置く一首
  何と明るい祈りのあとの雨の彩、千年後ま昼の樹下に目覚めむ
その他風景を詠ったものなど詩情豊かだ。
  月光は清音(きよね) 輪唱とぎるれば沈黙の谷に罌粟(けし)がほころぶ
  睡蓮は小さき羽音をみごもれり蜂たちの影いくたびよぎる
そして、本歌集の最後に置かれた一首
  水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら




*書評
木村草弥歌集『嬬恋』評    長野Y子
(角川書店「短歌」2003年10月号所載)

『樹々の記憶』につづく第四歌集。「未来」所属。帯文川口美根子氏。作品数482首とエッセイが五つの各章に分けられ、魅力的で読み応えのある労作である。
水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら
 この巻末に置かれた一首を見ても分かるように、妻への想いは純粋無垢でありその時々の思いが熱い文体で綴られている。
生き死にの病を超えて今あると妻言ひにけり、凭れてよいぞ
冬の午後を病後の妻と南天の朱実を見つつただよふごとし
このひとと逢瀬のごとき夜がありただにひそけき睡りを欲りす
 西南アジア、中東エルサレムやイスラエルを巡って詠んだ歌群は、単なる旅行詠とは異なり、著者の豊かな洞察力と理解の深さが、作品に精神的な豊饒さを与えている。
彼らみな洞に住みしか聖跡はひとしく洞窟を祀りてゐたり
勇気こそ地の塩なれや桃一枝仰臥の死者の辺に添へられつ
断念を繰り返しつつ生きゐるか左に死海、右にユダの沙(すな)
「信じられるのは銃の引金だけ」そんな言葉を信じるな!  君よ
麦、葡萄、無花果、柘榴、オリーヴとナツメヤシの蜜の「約束の土地」
 厖大な歴史に基づいた作品は後世に残しておきたい一集である。
嬬恋(つまごひ)を下りて行けば吾妻(あがつま)とふ村に遇ひたり いとしき名なり
 歌集名の『嬬恋』は群馬県の地名に愛する妻への思いを重ねて、この一首から取られている。
(完)




*書評
木村草弥歌集『嬬恋』──感応   米満英男(黒曜座)
その多様な発想と表現に向けての恣意的鑑賞

 今、眼前に、四八二首を収載した歌集『嬬恋』がある。まずその歌の抱える幅の広さと奥行の深さに圧倒された。東はユカタン半島から、西はエーゲ海に到る<規模雄大> なる覊旅の歌にも目を瞠ったが、その現地体験もなく、宗教や風習にも全く疎いと気付き直し、敢えてそれらの歌からは、紙数の関係もあって降りることにした。 私が平素上げている専用のアンテナに、強く優しく伝わってくる歌からの電波をとらえて、私なりの気ままな読み取りを行い、それを返信の言葉に代えて述べてみることにする。
@目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を
A父を詠みし歌が少なし秋われは案山子(かかし)やうに立ちてゐたりき
Bうすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり
C夜の卓に土筆の吐ける胞子とび我死なば土葬となせとは言へず
D石ひとつ投げし谺がかへりくる花の奈落の中に坐れば
Eうつしみは欠けゆくばかり月光の藍なる影を曳きて歩まむ
 いずれの作品も、まさに現代短歌の本筋とも言うべき、肉眼と心眼、写実と抽象、正視と幻視が一元化した上で、さらに濃密性と透明感を秘めた歌に仕上がっている。
 一首ずつ、恣意的に味わってみる。
 @の歌、目つむれば常に花の向うから現れる母の姿。おそらくは母が纏う甘い匂いも嗅ぎ分けていよう。Aの作品、父と同様、作者自身も、父となった以後は、子から見れば孤独な存在に過ぎない。B真昼間の春爛漫のさくらではない。若気の至りを越えた後をふり返りつつ、その回想を子に聞かせている。C上句にこめられている妖気が、下句の願望を妨げ作者の口を閉ざさしめる。D花にかこまれて坐っている自分の姿を、奈落の中と観じた刹那、投げた石の谺のひびきがわが身を禊ぐ。Eの歌、白い月光の下、藍色の影を曳きゆくほどに、うつしみの欠落部分が、いよいよつよく感じられると詠じている。
 次に、上掲の歌とがらりとかわって、何とも言えぬユーモア、あるいは洒脱な語り口からくる、本音に近い発想の楽しさを湛えている作品を抜き出してみよう。
F重たげなピアスの光る老の耳<人を食った話> を聴きゐる
G手の傷を問ふ人あれば火遊びの恋の火傷と呵々大笑す
Hクールベのゑがくヴァギナの題名は「源」(スールス)といふいみじくも言ふ
I春くれば田んぼの水に蝌蚪(おたまじやくし)の語尾活用を君は見るだらう
J園芸先進国オランダ開発のミディトマト「レンブラント」と名づけられた
 Fの作品、車内で見た<老婦人>であろう。隣の老人の語る<人を食った話>、つまり人を馬鹿にした話をじっと聴いている。そしてその話をまた作者自身も、思わず聴いてしまう。Gは、これまた、何とも鮮やかな応答である。結句の<呵々大笑>の締めがよく効いている。H読み下した瞬間に「なるほど」とうなずく外はない愉快な歌である。下句の<いふ><言ふ>の駄目押しが決まっている。Iさてさて、こういう発見もあったのかと頷き返す。<君> が何者かと思案する楽しさも残されている。J<レンブラント>という重々しい命名のトマト─是非食べてみたい。こういう、絶妙な軽みを持つ歌を随所に据え置いているのも、作者のすぐれた<芸> の内であろう。
 さて、ここら辺りで、題名の『嬬恋』にぴたりと即した作品をとり上げてみよう。
K雷鳴の一夜のあとの紅蜀葵(こうしよくき)まぬがれがたく病む人のあり
L億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
M生き死にの病を超えて今あると妻言ひにけり、凭れてよいぞ
Nゆるやかに解(ほど)かれてゆく衣(きぬ)の紐はらりと妻のゐさらひの辺に
O水昏れて石蕗(つはぶき)の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら
ありきたりの感想など入れる隙間などない、まさに絶唱としか言いようのない作品である。が、それではいささかこちらが無様すぎるので、敢えてひとこと述べてみる。
 K雷鳴が葵というはかない存在を経て、病む人につながるその緊迫感。L永遠の時間に比べれば、人のみならずすべての生き物は瞬間の命しか持ち得ないという詠嘆。M四句から結句に至るその間に付けられた<、>の重さによって、<凭れてよいぞ>という作者の肉声が何とも切なく伝わって来る。N若かりしころの艶なる妻の姿態がふと浮かぶ。歳月の流れ。O一歩踏み出せば一種の惚気とも取られかねない際どい線の手前に踏みとどまって、己れの身をその<女>(ひと)に委ねている。
 好き勝手な、自己流の鑑賞──というよりも、一方的な受容と合点を行って来た。そこであらためて気付いたのは、この歌集のもつ多様性であった。しかもそれは、歌の表層部分の言葉の置き換えから来るものではなく、作者自身のその場その時における情念と直感が導き出す重厚にして膨みのある、ユニークな詠嘆であった。 
 その詩的詠嘆の、さらなる充溢と進展に向けて、惜しみなき拍手を送りたい。 (完)




*出版記念会批評から*
(2003年10月4日 於・東京法曹会館)

@三井修氏批評
(「塔」所属。歌集『砂の詩学』『洪水伝説』『アステカの王』『風紋の島』)
三年前まで、総合商社・三井物産の駐在員として主にペルシャ湾に浮かぶアラブ首長国連邦のバーレーンという、大きさとしては淡路島と同じ島に本拠を置いて仕事をして来た。現在、問題になっているイラクでも、バグダッド事務所長兼務という形で経済封鎖をされていた同国に出入りしていたが、やった仕事の中では、学生時代からアラブにかかわって来た中で、いろいろの問題を抱えた異質なイスラエルという国─イスラエルの国策会社である航空機製造会社の対日総代理店を取ろうと思って働きかけて、イスラエル入国・出国の記録の痕跡を残すとアラブ圏に戻れないので苦労して出入りしていたから、会社生活の中で一番思い出深いのが、イスラエルである。そんなことで「ダビデの星」の章には関心を持って読んだ。
@木村さんの歌集を読んで一番感じたことは、叙事的なことを短歌で詠うことの難しさということだ。 私も両親が韓国に居たことがあるので、会社をやめてから韓国に行って、たとえば旧朝鮮総督府の建物の前に立って短歌にしようとしたが57577という短歌にならない。そこでやむなく「長歌」にした。つまり、短歌には短歌でしか詠えない分野があり、散文には散文に適した分野がある。
短歌という詩形は、作者の心の中を詠うには適しているが、物事を記録するとか、情報を伝えることは不得手だということである。
「ダビデの星」辺りのくだりは、叙事的なことを詠う、説明するという個所に無理がある。その辺の難しさは、作者の木村さん自身も、よく判っていて「あとがき」の中で「歌で表現できることには限界があるので、それを散文で補いたいという意図である」と書かれていて、なるほどと思った。今の複雑なイスラエルのような状況を説明するには短歌だけでは出来ない。だから木村さんの苦しい妥協だったと思う。
それなら最初から全部を散文にしたらどうか、と言われそうだが、そこが、われわれ歌詠みの悲しさで、短歌の形で何とか表現したい、という気持ちがあるので、よく判る。
作品としては、「ダビデの星」は余り成功しているとは言えないが、叙事的なことを短歌で詠うことの、一つの問題を提起した、と言える。
この一連の中で一首あげるとすると、  P170の
何と明るい祈りのあとの雨の彩、千年後ま昼の樹下に目覚めむ 
を挙げたい。これは説明に終わっていない。作者自身の気持ちが詠われている。
A木村さんの歌では、日常詠の中に抒情性のある、優れたものがある。 たとえば、
P14 壺に挿す白梅の枝のにほふ夜西班牙語の辞書を娘に借りにゆく
この歌では、白梅とスペイン語とはストレートには結びつかないが、でも全くかけはなれている訳でもなく、少しづつずらして、うまく繋がれて成功している。
P23  一二輪まことに紅濃き梅の花さびしきかなや若き死者のこゑ
P26 <老梅いつぽんあるゆゑ家を捨てられず>我には捨てし老梅がある
「捨てし老梅」というのは、ある比喩だと思われるが、つみ重ねて来た人生が、しみじみと出ている。
P37 秋草の波止場の旅籠に蛸壺のセールスマンと泊りあはせし
蛸壺というのは大量生産したものを売りに来る、のですかね。蛸壺のセールスマンというのが、とても面白い。旅籠(はたご)というのも今では死語に近い言葉だが、この意外な取り合わせが一首の中で、うまく折り合って、うまい。
抒情性のある歌は、他にもありますが、この辺にしておきます。
結論として、叙事性の難しさに挑まれたこと。また日常詠の中に木村さんの抒情性に独自の境地を詠われた、よい歌集であった、と思います。
後の予定が控えておりますので、この辺で終わりにいたします。

(追記・三井修氏が7月28日付私信で抄出して頂いた『嬬恋』十首抄を下記する)
*聞酒に誘はれ口にふふみたる此の旨酒の銘は「神奈備」
*目つむれば菜の花の向うゆらゆらと揺れて母来るかぎろひの野を
*笠置町教育委員会のバス着きて降り立つ子らは十二人のみ
*地の上のむごたらしき死も知るなくて清らなる水の流るる地下水脈(カレーズ)
*山城園済南支店ありし町われは泉の水を掬ひつ
*披かれて置かるる本は古の朱の書き込みの見ゆる楽譜ぞ
*たたなはる巨き石塊のシルエット平原に赤き夕陽没りゆく
*つくばひの底の夕焼けまたひとり農を離るる転居先不明
*これを聴くと勇気が出ると「フィンランディア」を聴いて妻は手術へ
*手術中──かういふ時しか血族が顔をそろへることがない控室



A光本恵子氏批評
(未来山脈誌発行人・著書『薄氷』『素足』『女を染めていく』『朝の出発』)
P198に  嬬恋を下りて行けば吾妻とふ村に遇ひたり いとしき名なり
という歌がありますが、嬬恋というのは信州と群馬県との県境に近い、軽井沢から、すぐの所にある土地の名前ですが、私もはじめて、この土地に行った時に「嬬恋」という地名に、ハッとしました。木村さんが、嬬恋という地名から吾妻という地名に思いを重ねながら、この歌集をまとめられた想いに共感しました。
P28に  わが妻は函館育ち海峡を越えて蝦夷桜の初花待たむ
という歌がありますが、函館から奥さんを迎えて、京都の宇治茶問屋として家業を四代目社長として支えて来た、木村さんの人生を考え合わせて、この歌集の中でも、一番抒情的な歌として引いておきます。
P31に  真実とはいかなる象なすものか檀のまろき実くれなゐ深く
という歌がありますが、私の家の庭にも「まゆみ」の樹がありまして潅木ですが、冬になりますと、真紅の丸い実をつけて美しいものです。この歌には象(かたち)という字が使われていまして、何か、かな遣いなどに万葉集を意識しました。
「象」ということから「形」「形式」という連想に思いが及びますと、木村さんの第三歌集『樹々の記憶』は自由律の歌集だったが、この歌集にも、定型だと思って読んでゆくとパッと自由律あるいは、定型から言うと破調の歌が出て来たりする。これは作者の発想の自在さ、詩から出発したという姿勢のせい、かと思います。
P27に  うすべにのゆく手に咲ける夕ざくら父なる我の淡きものがたり
という歌がありますが、父なる私の物語がはじまるぞ、ということの他に、お父さんへの思い、若い時に父を裏切って来た、父に迷惑をかけて来た、という思いがあるのではないか。それに、自分が父親になってからの子供たちとの関係のこと、などが込められて詠われているのではないか、と思います。
P28、P29 にかけて
父母ありし日々にからめる縷紅草ひともと残る崩垣の辺に
縷紅草みれば過ぎ来し半生にからむ情(こころ) の傷つきやすき
という歌がありますが、ルコウ草というのは図鑑で調べますと、もう、その辺にやたらにはない消えかかった草、ということらしいですね。そういう意味で、ルコウ草というのは、とても古い草で、そのルコウ草が茂る京都の、宇治の老舗(しにせ)を守ってゆくという、古い家ゆえの、さまざまのしがらみを抱えての、自分の人生を振り返って、崩垣の残る辺りに想いをからませて、うまく詠われていると思います。
P72に  手にすくふ水に空あり菖蒲田の柵に病後の妻と凭りゐつ
という西湖の歌がありますが、この歌は西湖と病後の妻との取り合わせが、ぴったりと決まっておりまして、読者にしみじみとした興趣を呼び起させます。
木村さんの旅の歌は叙事的な詠み方のものが多く、多くの人に説得力を持って読まれるかどうか、と思いました。
原点は、ルコウ草の茂る古い旧家の宇治の家から出発し、外語、京大とフランス語をやり事情で家業を継がざるを得なかった、という想いから、ギリシア、中国、東南アジア、イスラエルやエルサレムなどの旅の歌に繋がってゆく訳でありますが、海外詠の難しさ、ということには先に三井さんもお触れになりました。
その中で「ダビデの星」の章に見られるように散文との併用によって、短歌とエッセイをからませて、一つの壮大な物語を完成させてゆくという、木村さんの試みの方法もあってよいのではないか、と思いました。
木村さんの歌集は、まさにグローバルに世界を見ながら、最後には妻のふところに戻ってゆくという、男の物語であろうか、と思います。



B菊地原芙二子氏批評
(かがりび、開放区、砦、ガニメデ所属。歌集『星図』『雨の句読点』『はは』)
この歌集は「嬬恋」という題名になっている上に、病身の奥さんを抱えていらっしゃって前の方にも奥さんを抒情性ふかく詠われていて、そこに思いがこもっていますから、奥さんへの思いを中心にして作られたのは、確かだと思います。
こんな歌があります。
P72   手にすくふ水に空あり菖蒲田の柵に病後の妻と凭りゐつ
P124 億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし
また私は少しエロチックな歌かなと思って見たのですが
P183  羽化したやうにフレアースカートに着替える妻 春風が柔い
この歌なんかは自由律のように詠われています。
P184  この夏の終りに蜩鳴きいでてそぞろ歩きのうつせみの妻
P192  妻のメモ「今しばらくあなたの世話をしたいと思つてゐました」
P194 生き死にの病を超えて今あると妻言ひにけり、凭れてよいぞ
P200 ゆるやかに解かれてゆく衣の紐はらりと妻のゐさらひの辺に
P201 水昏れて石蕗の黄も昏れゆけり誰よりもこの女(ひと)のかたはら
奥さんは古稀というお歳になられたようですが、そんな奥さんの古稀への思いを詠われて奥さんも、それに応えておられると思いますので、同じ昭和ひと桁生れの私なども年齢に応じた情熱を持ちたいものだと思いました。
次に旅行詠のことですが、旅行詠の中でも、叙事的なものばかりではなく、特に「ダビデの星」の章などの中で、ご自分の思いを述べておられるのに注目しました。
P137 脆すぎるものゆゑ人は戦ひぬ律法もつモーゼ、剣もつエリヤ
こういう発想の仕方。人間というものは脆いから、という把握の仕方は、なかなか出来ない、と思います。
P115 ガンジーの屍を焚ける火葬場この国に暗殺(アサシン)多き何ゆゑ
ガンジーだけでなく、ネルー一族など多くの要人が暗殺されています。こんなに暗殺が多いのは何故だろうか、という気づき方は並じゃないと思います。
P156 「信じられるのは銃の引金だけ」そんな言葉を信じるな! 君よ
この歌は自分の気持をストレートに詠まれていると思います。
P145 断念を繰り返しつつ生きゐるか左に死海、右にユダの沙
P169 夕暮は軋む言葉を伴ひて海沿ひに来るパレスチナまで
P169 目覚むるは絆あるいはパラドックス風哭きて神をほろほろこぼす
P170 何と明るい祈りのあとの雨の彩、千年後ま昼の樹下に目覚めむ
これらの歌は、作者の思想、思索、信念が表白されていて、注目しました。
ところで、W ダビデの星の章の扉のところに旧約聖書のサムエル記 U の抄出が載せてあるのですが、このダビデの言葉というのは、その項目の一番終りの個所なのですね。
ダビデというのはめちゃくちゃな男で、多くの奥さんを抱えたりして異母兄弟がたくさん居て、兄弟同士で殺しあうなど、今の現代の風俗と何ら変りない。今はメディアが発達しているので、二十一世紀になって先が大変だ、などと言われますが、五千年前、三千年前も同じです。旧約聖書を読んでいると、今ここで読んでいますダビデの一生などにみられるように、とても多くのことを教えられます。
木村さんが、この「ダビデの星」をお書きになる時に、そこまで考えておられたか、は判りませんが、イスラエルに行くような時には、これらのことを頭に叩き込んでおけば、表面的ではない、深い、面白い記事が書けるのではないか、と思いました。
P169 <国家の無化>言はれしも昔せめぎあひ殺しあふなり 地球はアポリア
という歌がありますが、この嘆きは熱い嘆きです。本当に地球上に混乱が続いている、ということへの嘆き。木村さんは、この一首のために、この一巻を編んだのではないか、という思いが、無教会派クリスチャンの私には、するのです。


C風間晶氏批評
『嬬恋』を称えて 風間 晶
──きみとぼくとのあいだに とてもしずかなそんけいが      
にじのおおきさで にじいろにかかるとき──

先ず、眼の底に草色があって、補色の赤い蓮の花が鮮明に動いてくる色彩と言葉の匂いに聡く、人間の移ろいに鋭く宗教の琴線を鳴らし、知的な語彙にめくるめきながら、終結のamourに結んで行く調べには、愛知(フィロソフィア)と詩人の無垢な魂に触れる思い。

T かがなべて──古事記 その無垢
縷紅草みれば過ぎ来し半生にからむ情の傷つきやすき
タイトルの嬬恋は恐らく草弥さんが草津に愛妻の凝脂を洗い、嬬恋の名前にしびれながら、吾妻川に沿う吾妻線に乗り吾妻村を過ぎ子持村を通って帰郷された原点の響きなのであろう。──その清冽なときめきに

U をちこちの──古今集  curiosite
中国、マヤ、ギリシァ、エーゲ海、バリ、ボロブドールなどの旅路は、歴史と伝承が英知に掬い取られて人間が生きています。
本当に「和歌(やまとうた)は人の心を種として、よろずの言の葉よりなれり」と。
大和心を縦糸として一生の行方を草弥綾織りにしてくれました。
風景がわれを容るると思ふとき路上にアヒルの群が溢れぬ

V かむときの──万葉集  雷も天も鳴るのよ
国原もインドも、ひとは生きる、生きて行くのだなあ。
<時を貪れ>(カルペ・ディエム)直訳されて何のこつちや即ち<今を生きろ>つてこと
億年のなかの今生と知るときし病後の妻とただよふごとし

W ダビデの星──本当に地球はアポリアだなあ、人もあぽりあ神もあぽりあ
目覚むるは絆あるいはパラドックス風哭きて神をほろほろこぼす
刑の宣告受けしイエスがゴルゴダの丘に発ちし地いまアラブ人小学校

X めぐり逢ひて──夢寐のうちか 地球も
睡蓮の咲くも閉づるも夢寐のうち和上の言ひし朱き蓮よ
人生を夢寐と言うけどあらずあらずよ珠玉のひかり出る瞳よ(晶)
水昏れて石蕗の黄も昏れゆけり誰よりもこの女のかたはら
何という美しい綾取りを見たことか、「世界は美しい、人の命は甘美である」と釈迦も言い、寂聴も言いし言葉よ-------。
(28 sept. 2003)

TOP  目次

inserted by FC2 system